【巨人軍の闇・湯口事件1】高卒ドラ1のエース候補が急死…精神的変調と首脳陣の叱責の画像1
後楽園球場(「Wikipedia」より)

 プロ野球のペナントレースが始まった。コロナ禍による観客数の制限はあるものの、プロ野球ファンが最も胸躍るのは、やはりこの時期なのかもしれない。しかし、私はプロ野球開幕の頃になると、大輪の花を咲かせることなく、華やかな表舞台から消えていった選手たちの姿を思い出さずにいられない。

 その一人が、精神科病院のベッドで謎の死を遂げた湯口敏彦。1970年11月、岐阜短大付属高校(現・岐阜第一高校)からドラフト1位で読売巨人軍に入団した左の豪腕である。

若き豪腕が陥った「フォーム改造による悪循環」

 高校時代は、1度の完全試合を含む4度のノーヒットノーランを達成。1970年には春夏連続の甲子園出場を果たし、夏は準決勝まで勝ち進んだ。甲子園通算7試合で61奪三振、1.35の防御率。晩年期にあった巨人・金田正一に代わる将来のエース候補として、プロ入り早々から「金田2世」として期待された逸材だった。準エースナンバーの背番号「19」を与えられたことも、その期待を物語っていた。

 だが、「3、4年経ったら必ず一人前になってみせる」と喜び勇んで巨人入りした湯口本人に対して、彼の両親はと言えば、当初から不安を隠せずにいた。「ノンプロも勧めましたが」と、今は亡き父・昌範氏は生前、私に語っている。

「プロと名のつく世界はどこでも厳しい。巨人はその名門だっただけの話です。難しいとは思っていましたが、もう少しのんびりした球団でやっていれば、と思ったことはありました」

 当時の巨人はV9時代の真っ只中。湯口が入団した頃は、即戦力重視から将来性重視へとチーム方針を転換しており、湯口はその育成ターゲットの目玉に挙げられた。

 豪腕だが、ノーコン。奪三振か与四球かという強さと脆さを併せ持つ湯口に対して、2軍監督の中尾碩志と2軍投手コーチの木戸美摸が着手したのが、投球フォームの改造だった。

 湯口の本来のフォームは、胸の張りを利用するオーバーハンド・スルー。打者に威圧感を与えるダイナミックなものだったが、リリースの際に首を大きく反らせる分、視線がぶれてしまい、これが制球難を生んでいた。2人の2軍首脳陣は、それを首の動きの小さいスリークオーター気味のフォームに改造した。

 これが功を奏したかに見えた。プロ入り2年目の1972年4月30日、大洋ホエールズとの2軍戦で完投勝利を飾った湯口は、慣れないインタビューに朴訥として答えた。

「やっとフォームが自分のものになった気がします。この調子で速い球をどんどん投げ込めるようになったら自信もつくと思います」

 この時点で、湯口の成績は2勝0敗(5試合、イースタンリーグ)。計21イニングを投げて19与四死球と制球難の問題が解消されたわけではなかったが、ピンチをしのぐ投球術の会得も垣間見せていた。

 投壊現象が続き、頼りになるのは堀内恒夫ただ一人という状況の1軍では、川上哲治監督が「オールスターまでには使ってみたい」と湯口の1軍昇格を心待ちにしていた。

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