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『青天を衝け』渋沢栄一、徳川慶喜、徳川斉昭の「子だくさん伝説」…子女10人超の艶福家

文=菊地浩之
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第15代征夷大将軍・徳川慶喜も艶福家といえば負けてはいない。写真は1866(慶応2)年頃に撮影されたという慶喜(Wikipediaより)。

最後の将軍、徳川慶喜は、十男十一女、計21人の子に恵まれた

 艶福家といえば、渋沢栄一の主の徳川慶喜(演:草なぎ剛)も負けていない。十男十一女、計21人のお子さんがいらっしゃった。結婚当初、正室の美賀子は嫉妬深く、ヒステリックで大変だったようだが、その後、夫婦仲は円満に落ち着いて、子どもも授かった。ただし、いずれも早世したといわれ、カウントされていない。慶喜が将軍職を継いだあたりは京都に単身赴任だったので、何人か側室がいたようなのだが、朝敵とされ、謹慎するときに2人の側室以外は整理されたという。

 その2人のうちのひとり、新村信(しんむら・のぶ)は慶喜の小性・新村猛雄(たけお)の養女で、同じく猛雄の養子の新村出(いずる)は『広辞苑』の編纂者として有名である。

 もうひとり、中根幸(なかね・こう)は旗本の中根芳三郎の娘である。中根姓といえば、一橋徳川家の用人・中根長十郎(演:長谷川公彦)が有名だが、ごく近い一族ではないらしい。

 2人の側室は、「夜のお相手も一晩交替」だったという。なんて律儀な……? この2人は非常に仲が良くて、どちらの子どもなのかまったく意識せず、分け隔てなく接していた。現代人には理解できない感性がそこにはある。

 ただ、よくよく見ると、新村信の子女のほうがいいところに縁付いている。伏見宮妃や徳川御三家・御三卿夫人、慶喜の跡継ぎ・徳川慶久(よしひさ)も信の子だ。側室同士は分け隔てなく接していても、父・慶喜は母を見て選り分けていたのかもしれない。

 成人した慶喜の娘はいずれも華族(+皇族)に嫁ぎ、息子は華族の養子か、華族に列するかのいずれかである。勝海舟は息子が早く死に、孫娘しかいなかったので、慶喜の七男・慶久を婿養子に欲しいと慶喜に打診すると、「アレは我が家の跡取り息子だから」と断られ、十男・精(くわし)を養子にした。

 慶喜の子は一字の漢字で「シ」で終わるケースが多い。長男から三男までバタバタと早世してしまい、慶喜はショックだったらしい。四男の厚(あつし)が早世しなかったので、「シ」で終わる名前の男子は長生きすると考え、五男以降は博(池田仲博)、斉(ひとし)、久(徳川慶久)、寧(やすし)、精と命名した。唯一の例外は誠(まこと)なのだが、彼が一番長生きしたのだから、世の中わからない。

 子どもはいずれも華族に列したのだが、最後に爵位をもらったのは誠だった。慶喜はよほどうれしかったらしく、風邪をおして宮中に御礼にうかがい、それがもとで亡くなった。

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徳川慶喜の子どもたち十男十一女、計21人。渋沢栄一に勝るとも劣らず。

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