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成功はこうやって手に入れろ!「令和のヒットメーカー」の半生記(1)

「令和のヒットメーカー」の原点は倒産寸前の水道屋?“栃木のカリスマ”が東京進出

文=編集部
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『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(フォレスト出版/関谷有三)

 飲食業界における一大ブームとなった「タピオカミルクティー」。アパレル業界において異例の大ヒットとなった「スーツに見える作業着」。このまったく異なる2つの分野の事業で大成功を収め、「令和のヒットメーカー」という異名を持つオアシスライフスタイルグループ代表取締役CEOの関谷有三氏の原点にあるのは、「水道屋」である。

 では、なぜ関谷氏は水道、飲食、アパレルという3つの異なる分野で、次々に事業を成功させることができたのだろうか。その成功の原理と法則がつづられた『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(フォレスト出版刊)をのぞくと、関谷氏の半生は挑戦に次ぐ挑戦であり、人の心を揺さぶる強い信念を持っていることが感じられる。

 4回にわたるこの連載を通して、関谷氏の軌跡をたどっていこう。

政治家の夢を見た少年は高校時代にドロップアウトし…

「タピオカミルクティー」「スーツに見える作業着」――近年を代表するこれらのヒットを仕掛けてきた関谷氏は1977年、街のありふれた水道屋の息子として、栃木県宇都宮市に生まれた。

 幼い頃の関谷氏は、どんな子どもだったのだろう。本書を開くと、小さな頃から勉強がよくできたと回想している。小学校時代のテストはほとんど100点。95点を取ろうものなら、悔しさのあまりテストを破り捨てたというから、相当の負けず嫌いだったのだろう。

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『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(フォレスト出版/関谷有三)

 そんな関谷少年の夢は政治家だった。東京大学に入り、外交官となって、政界に進出する。そんな人生を描いていたという。

 高校は県下一の進学校に入学する関谷氏。しかし、東大を目指していた彼は、ここからドロップアウトしていってしまう。ガリ勉が集まる男子校に耐えられなかったのだ。他校のかわいい女子と付き合うには、自分のイメージを変えないといけない。身なりをヤンキーに変え、街の不良グループの一員となり、頭脳派として君臨していたという。

 東大から外交官、そして政治家へ――。その夢はとっくに忘れ去っていた。

 高校を卒業した関谷氏は、浪人を経て東京の大学に進学。そこでは持ち前の行動力でイベントサークルを立ち上げ、学生生活を謳歌した。大学卒業後は、そのまま東京でイベント屋にでもなろう。そんなことをぼんやり考えていた矢先、彼は「一番進みたくない道」に進むことを余儀なくされてしまう。

 それは、栃木に戻り、実家の水道屋を継ぐことだった。

 父親が体調不良となり、唯一の営業が動けなくなった実家の水道屋は倒産寸前に追い込まれていた。東京での派手な日々に後ろ髪を引かれつつ、これまでの罪滅ぼしのためにと、水道屋を手伝うことを決めた関谷氏だったが、そう簡単に父の代わりが務まるはずがない。

 勢いだけではうまくいかない。アドバイスをくれる人もいない。がんばればがんばるほど追い詰められていく。一方、東京にいる大学時代の友人たちからは、華やかな世界の話ばかりが流れてきた。関谷氏は彼らとの接触を断つために、携帯電話を着信拒否にした。何もかもうまくいかなかった。

どん底から「栃木の若きカリスマ」へ、そして父親との諍い

 それから3年。当時を振り返り、「ノイローゼ状態」だったという関谷氏は、市役所に貼られた1枚のポスターをきっかけに快進撃を見せ始める。

 そこに書いてあったのは「助成金、お申込み受け付け中」という文字。お金がもらえるならと、関谷氏はさっそく無料相談コーナーのおじいさんのもとに通い、助成金の申請を進める。この名コンビは、日々アイデアを出し合い、チャレンジを続けた。そして、大学との共同研究の助成金を申請し、数百万円という高額をゲットするとともに、研究が実用化に成功、会社名義で特許も出願するという結果を出した。ビジネスの才覚が花開いた瞬間だった。

 さらに、経済産業省の助成金にも挑戦し、北関東で初めて採択されたことから「栃木の若きカリスマ」と呼ばれるようになった関谷氏。県の水道局からの受注を皮切りに、大学との産学連携で考案したオゾンを利用した水道管メンテナンス事業は拡大し、水道屋は急成長を遂げていく。

 しかし、良いことがあれば、問題も起こるものだ。この頃になると、元気になった父親とぶつかることが多くなった。そして、2人の話し合いは平行線をたどり、結局は関谷氏が会社を辞め、再び東京に戻ることを決める。

あの震災から得た2つの教訓

 再び戻ってきた東京は光り輝いているようだった。さっそく六本木ヒルズが見える西麻布の外れのマンションの一室を借り、会社を設立した。社名は「オアシスソリューション」。楽園を目指してオアシス。IT企業のようにシステム「SYS」と「SOLUTION」をくっつけた。2006年、関谷氏は28歳にして独立を果たした。

 しかし、まだ事業が決まっていない。そこで思いついたのが、自ら手がけていた水道管メンテナンス事業だった。東京には星の数ほどマンションがある。それは水道屋にとってビッグビジネスの可能性があるということだ。父親に頭を下げて「あの事業を東京でやらせてほしい」と告げ、許される。

 事業も決まり、さらに社員も入社した。ところが、マンションの管理会社に営業をしても、まったく相手にされない。東京において実績がまったくない会社に、入り込む隙間はなかったのだ。

 それでも関谷氏はあきらめない。オゾンによる水道管メンテナンスは、マンションにとって役に立つ技術。アポさえ取れれば、興味は持ってもらえる。なんとかしてアポを取ると、とある中堅会社の技術部長から気に入られ、管理組合の理事長を紹介してもらえることになり、トントン拍子で初めての受注が取れた。

 そこからは早い。評判が評判を呼び、次々と商談が決まった。2年目には大阪に進出、3年目には全国に7拠点を持つなど、破竹の勢いを見せるオアシスソリューション。そして、株式上場の話が持ち上がり、準備が始まった。すべてが順調に進んでいた。そしてあの日――2011年3月11日を迎える。

 上場準備は中止。しかし、それよりも大津波が人や建物を襲い、多大な犠牲者が出た。あの震災を目の当たりにした関谷氏は、そこから2つの教訓を得たという。

「一つ目は、事業がひとつしかないと、突然の大きな社会変化に弱く、頼りないということだ。実際、震災の影響で、水道事業の売り上げは一時的だが激減していた。事業を複数にしたい。理想は3本の柱をつくることだ。できれば、いつの時代にも普遍的なテーマである衣食住に関する事業がいい。

 二つ目は、人生は、はかない。いつ死んでも悔いのないよう、様々なことにチャレンジしなくては、ということだ。多くの方が亡くなった。無念だっただろう。自分は今回生かされたが、明日何が起きてもおかしくはない」(p.44より引用)

 心の底からやりたいことが見つかったら、ひるむことなく挑戦しよう――。そう決めた関谷氏の目の前に、さっそく「やりたいこと」が現れる。全国展開に続いて、水道事業のアジア展開を目指していた矢先、市場調査で訪れた台湾で関谷氏の人生は大きく変わるのであった。

(文=編集部)

※本記事はPR記事です。

BusinessJournal編集部

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