【プロ野球人・木村拓也の原点2】泣いたユニホーム騒動…「投げろ!」仲間と大喧嘩の真相の画像1
宮崎南高校創立50周年とともに設置された顕彰レリーフ

 2010年4月7日、広島大学病院で一人のプロ野球人がくも膜下出血のため息を引き取った。同年、読売巨人軍の1軍内野守備走塁コーチに就任したばかりの木村拓也さん=享年37歳=である。

 1990年オフ、捕手として日本ハムファイターズにドラフト外入団。身長、わずか170cm。出場機会に恵まれず、一度は捕手失格の任意引退扱いになるも、1994年の広島東洋カープ移籍を機にスイッチヒッターへと転向し、投手と一塁手以外のすべての守備にも取り組んだ。このことが、木村さんをして球界屈指のユーティリティプレーヤーにのし上がる下地となる。

 巨人時代(2006~2009年)はリーグ3連覇、7年ぶりの日本一達成にも貢献した。中でも捕手不在の不測の事態で10年ぶりのマスクをかぶり、チームを勝利に導く好リードを見せたことは(2009年9月4日の東京ヤクルトスワローズ戦)、今も語り草になっている。

 一貫してチームプレーに徹したその野球観は、何によって育まれたのか。何よりも、「キムタク」の愛称で親しまれ、誰からも愛されたその人間性は、どこからきているのか。

 木村拓也さんの魅力を、彼の原風景の中からたどる。

第1回はこちら

捕手失格が生んだユーティリティプレーヤー

 冒頭でも書いているように、木村さんはプロ入り早々、捕手失格の烙印を押された。それが、彼のユーティリティプレーヤーとしての潜在能力を呼び覚ます要因になったことは、ひどく皮肉であり、幸運でもある。

 宮崎南高校野球部の1年先輩の江藤善健さんは、木村さんの捕手としての技量をこう振り返っている。

「高校時代の木村は強肩ぶりこそ目を見張るものがありましたが、キャッチングがあまりうまくなかった。思い出すのは、僕たちが最後の試合となった夏の県予選。よりによって、木村が新品の硬いミットを試合に持ってきたんです。さすがにみんな『おい、それ買ったばかりだろ? 大丈夫か?』と不安がっていましたが、木村は『任せとってください!』と気にも留めない。『頼むからそのミットで後ろに逸らすなよ』と言っても、『大丈夫っす!』『大丈夫っす!』。

 ところが、本当にパスボールしちゃったんです(笑)。しかも、それが決勝点になって、うちが負けてしまいました。試合後、木村は『だから、言ったやないか!』と周りに叱られていましたが、意外とあっけらかんとしていましたね。図太いところがあったんです」

 木村さんが恩師と慕った清水一成さんが高鍋農業高校から宮崎南高に赴任し、同校野球部の監督に就任したのは、1989年の4月。木村さんが2年生になったときである。

 当時、すでに木村さんの存在は複数のプロ球団に認知され、中でも日本ハムの岩井隆之スカウトが熱心に視察を繰り返していた。

「小さいけど、馬力があるというのが第一印象でした」

 清水さんは言う。

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