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『青天を衝け』草なぎ剛が出ていったあとの一橋徳川家は?…慶喜の将軍就任後の継承者たち

文=菊地浩之
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徳川茂栄の実兄で、尾張徳川家第14代・第17代当主、徳川慶恕(よしくみ)。安政の大獄によりこの慶恕が隠居に追い込まれたため、弟の茂栄がピンチヒッターとして15代当主となった。(画像はWikipediaより)

「高須四兄弟」の長兄・徳川慶恕が復帰し、尾張家は内紛へ…仕方なく五男・茂栄は隠居を選択

 安政の大獄の後、今度は桜田門外の変が起こって井伊直弼が暗殺される。となると、安政の大獄で隠居・謹慎された面々が赦免されるようになり、1862年、実兄・徳川慶恕の謹慎が解ける。ここで、「兄弟仲良く尾張藩を盛り立てていこう!」とはならなかった。

 安政の大獄で慶恕が隠居すると、尾張徳川家では慶恕派の家臣も自重を余儀なくされ、反慶恕派が台頭。かれらが茂栄を歓待した。当然、茂栄は慶恕とは反対の政策をとる。ところが慶恕が復帰すると、慶恕派の家臣が息を吹き返し、尾張徳川家は内部対立の様相を呈してくる。茂栄は高須藩への復帰を希望したが、弟・義勇がいるので、簡単にはいかない。

 1863年、ついに茂栄は隠居して玄同(げんどう)と名乗り、慶恕の子・元千代(5歳)に家督を譲った。もちろん5歳児に藩政はできないので、父・慶恕が院政を敷いた。

 茂栄は隠居後、大坂滞在中の将軍・家茂の側近くにあり、「親と思うぞよ」といわれるくらい信頼されていた。家茂の父・徳川斉順(なりゆき)は、11代将軍・徳川家斉の7男として生まれ、清水徳川家を継いだ後、紀伊徳川家の婿養子となった。だから家茂は、父と縁のある清水徳川家の当主に茂栄を迎えようと画策したという。

清水家を継げなかった徳川茂栄は、兄・慶恕の勧めで一橋家を継承…戊辰戦争では徳川家を代表し官軍と交渉

 茂栄は清水徳川家相続を目の前にして、ひっくり返された。では、清水徳川家を誰が継いだのかといえば、15代将軍・慶喜の異母弟、徳川昭武(あきたけ/演:板垣李光人)である。清水徳川家は1846年以来、当主不在だったのだが、慶喜が昭武の才能に感じ入り、パリ万博に派遣する際に箔を付けるために、清水徳川家の当主に据えたのだという。ついでをいえば、このパリ派遣に随員として従ったのが、渋沢栄一(演:吉沢亮)なのである。

 茂栄は清水徳川家を継げなかったのだが、代わりに廻ってきたのが一橋徳川家の家督である。時系列でいうと、以下のようになる。なんて慌ただしい。

・1866.7.20.  家茂死去
・1866.8.20.  慶喜、徳川将軍家の家督を継承
・1866.12.5.  慶喜、15代将軍に就任
・1866.12.7.  昭武、清水徳川家の家督を継承
・1866.12.27.  茂栄、一橋徳川家の家督を継承

 茂栄の家督継承には、御三卿にしっかりした人物を据えて幕府の体制を整えるべきという、実兄・徳川慶恕、実弟・松平容保の進言があったという。持つべき者はいい兄弟だね。

 ただ、この人事は成功だったようだ。戊辰戦争で、徳川家が官軍と折衝する必要が出てくるのだが、そのトップである慶喜が朝敵になってしまい、その役目を果たすことができない。そこで茂栄が慶喜に代わって徳川家を代表し、その役割を果たしたのだ。

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