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『青天を衝け』草なぎ剛が出ていったあとの一橋徳川家は?…慶喜の将軍就任後の継承者たち

文=菊地浩之
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江戸幕府8代将軍吉宗の四男・宗尹(むねただ)を始祖とする、御三卿のひとつ、一橋徳川家を中心とする家系図。人名下のカッコ囲みの人名は、『青天を衝け』における演者名。

一橋徳川家は明治維新後…茂栄、達道、そして徳川宗敬は水戸近郊の丹下村で開拓農民に

 一橋徳川家は厳密にいえば、藩・大名ではない。しかし明治維新後、大名として認められ、華族制度が導入されると、茂栄は伯爵(5~15万石の大名相当)に列した。

 茂栄の子・徳川達道(さとみち/1872~1944年)は父の死後、家督を継ぎ、慶喜の三女・鉄子と結婚。やっぱり慶喜は一橋家のことを忘れていなかったんだね。

 達道は40代半ばになっても子に恵まれなかったので、水戸徳川家から養子・徳川宗敬(むねよし/1897~1989年)を迎えた(慶喜の甥の子にあたる)。その妻には、またも慶喜の血縁が選ばれた。慶喜の五男・池田仲博(なかひろ)が旧鳥取藩池田家の婿養子になっていたのだが、その仲博の長女・幹子(もとこ)が宗敬と結婚したのだ。

 宗敬は学習院から東京帝国大学農学部を卒業して、帝室林野局(林野庁)に入った林政学の専門家だった。宗敬は官僚ではなく、将来的には学者になりたいという希望があり、数えの30歳で帝室林野局を退職。日本の林業はドイツを手本にしていたので、ドイツに留学し、帰国後に東大農学部の講師を務めた。また、貴族院副議長も務めていた。

 そして、第二次世界大戦の敗戦。宗敬夫妻は、留学時に第一次世界大戦の敗戦国・ドイツの現状を目の当たりにしていたため、敗戦後は貴族身分が役に立たないことを知悉し、食糧自給が可能である生産者に転身することを決意。水戸近郊の丹下村で開拓農民となった。

 ただ、宗敬は戦前貴族院副議長を務めていた経歴を買われて参議院議員に選出され、のちに伊勢神宮大宮司などを務めたため、丹下村に戻ってこられない日々が多かった。仕方なく、幹子夫人が子どもを抱えて農業に従事したという。幹子はそのエピソードをまとめ、『わたしはロビンソン・クルーソー』(茨城県婦人会館)等の著作を発刊している。

 なお、著作『絹の日土の日―ハイカラ姫一代記』(PHP研究所)のなかで、父からの教えを回顧し、「大名の家では、万一お城が潰れる時、困ったと言っておいおい泣いているわけにいかないから、いつでも対策を持って先へ先へと考えるという教えだったのね」と語っている。そういう教育があったから、いろいろな苦労を乗り越えられたのだろう。われわれも見習いたいものである。

(文=菊地浩之)

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徳川幹子の著作 『徳川幹子―わたしはロビンソン・クルーソー』(日本図書センター)。徳川慶喜の五男で旧鳥取藩池田家の婿養子となっていた池田仲博の長女であった幹子は、水戸徳川家から一橋徳川家に養子に入っていた徳川宗敬に嫁す。学習院女子部時代、幹子は女王良子(のちの昭和天皇妃)の学友であるなどしたが、宗敬と結婚後は農業にその生涯を捧げた。
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●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)など多数。

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