08年のリーマンショックのあおりを受けて経営破綻したJALは、民主党政権の下で公的支援を受けることになったが、「当時のANA経営陣の最優先事項は羽田の増枠分をがっちり自社のものにすることと、JALの規制をできるかぎり長引かせることだった」(当時をよく知る自民党議員)。このため、ANAは永田町と霞が関になりふり構わぬロビー活動を展開し、羽田の増枠分の大幅な傾斜配分に成功した。また、経営破綻からわずか約2年で再上場を果たしたJALに、16年度まで経営が国の監視下に置かれる「8・10ペーパー」による“足かせをはめる”ことも忘れなかった。
天敵のJALが沈み、自由にできる国際線発着枠が一気に増えたことで、ANA経営陣は勢いづいた。その象徴が12年2月に発表した持ち株会社化への移行である。これまでの連載でANAホールディングス(HD)発足後、パイロットの数は据え置くにも関わらず疲労が蓄積するレベルで労働を強化し、⼤量採⽤したCA(客室乗務員)の労働環境や福利厚⽣の整備がまったく追いついていないなど、地に足の付いていない国際線拡大路線を突っ走ってきたことは繰り返し指摘してきた。
「意志決定の迅速化というと聞こえはいいが、HD化によりHDの経営陣とそれ以外の下々という私物化の構図が鮮明になった。組合として不満を言おうにも事業会社が壁となりHDには届かない構造になったため、さらに経営陣のやりたい放題になった」(ANAの古参社員)
13年に東京五輪の誘致が決まり、インバウンド誘致の推進という国策にも後押しされたANAは、JALという競合が思うように事業拡大できない中でこの世の春を謳歌することになり、遠慮なく国際線拡大を進めることになった。最終的なもうけを示す純利益が、HD化した14年3月期の188億円からコロナ禍前の19年3月期は1107億円と5倍以上に伸びたことからも、それがうかがえる。
一方で「強いJALが帰ってくる」との懸念も強く、現場ではコストカットの口実に使われたというから、「8・10ペーパーの効力が切れる17年3月までにできるだけ差を開けておきたいという思惑もあり、がむしゃらにこの時期に走った面はある」(先の古参社員)。
そのがむしゃらがコロナ禍で行き詰まり、21年3月期通期では一転、4046億円の過去最大の純損失を計上し、有利子負債は1兆6554億円に膨らんだが、懸念材料はもともとあった。20年3月末時点で8428億円の有利子負債を抱えており、「当時の⾃⼰資本⽐率は41.4%と安全圏だったとはいえるが、予期せぬことが起きれば⼀気にひっくり返る危険は常にあった」(投資ファンド幹部)。
その「予期せぬこと」がコロナ禍だったというわけだが、国際線は疫病や戦争などのリスクがつきまとう上、いざそうなったら一気にそれまでの投資や溜め込んだ貯金を吐き出さねばならなくなる。その高リスク事業にこの10年をかけてきたANAは現在、その戦後処理に追われているというわけだ。
さて、ここまでやや駆け足でANAが歩んだこの30年間を見てきたが、次回からここで振り返った内容を元にして、実際にANAHDの⼤橋洋治相談役を筆頭として、伊東信⼀郎会⻑、⽚野坂真哉社⻑以下、歴代経営陣がどのように舵を取ったかを追っていく。人件費などコスト削減を従業員に飲ませるための御用組合化のプロセスや、整備コストの削減がどのように行われてきたかなど、これまで主要メディアでは語られなかった部分をご紹介する。