NEW

福沢諭吉と渋沢栄一の甥っ子たちが繰り広げた仁義なき戦い…王子製紙を舞台に乗っ取り戦争

文=菊地浩之
【この記事のキーワード】, , ,
【確認中】福沢諭吉と渋沢栄一の甥っ子たちが繰り広げた、王子製紙を舞台にした仁義なき戦いの顛末の画像2
明治から昭和にかけて活躍した実業家、藤山雷太。福沢諭吉の甥である中上川彦次郎からの信頼が厚かった。(画像は雷太の息子である政治家・藤山愛一郎などが昭和14年に著した『藤山雷太伝』から/Wikipediaより)

福沢諭吉の甥っ子・中上川彦次郎の腹心の部下・藤山雷太、王子製紙に乗り込み、社長の渋沢栄一に辞任を要求す

 藤山雷太の活躍ぶりは鮮やかだった。のちの総理大臣・桂太郎の邸宅が実弟への貸金の担保となっていたため、これを差し押さえようとしたり、松方正義の実兄が担保にしていた旧薩摩藩屋敷を差し押さえたりした。彦次郎は雷太をよほど気に入ったと見え、夫人の妹・みねとの結婚を雷太に勧めたくらいである。

 そして、明治29(1896)年、藤山雷太は王子製紙専務に就任した。

 王子製紙は、渋沢栄一の提唱によって明治6(1873)年に設立され、栄一が王子製紙の「工場の煙突から煙の上るのを朝夕眺めるのはひとつの楽しみだった」というほど目を掛けていた。

 王子製紙は業容拡大のため、明治29(1896)年から明治32(1899)年にかけて3度、都合475万円の増資を行った。彦次郎は三井銀行が増資に応じる代わりに専務の派遣を打診。2名の候補者の中から藤山雷太が選ばれた。

 専務就任にあたり、雷太は彦次郎に呼ばれ、密命を受けた。

「渋沢が君に専務になってほしいということだから是非やってほしいが、そのかわり君に命ずることがある。君の目的は王子製紙を三井の会社にすることだ。彼らに懐柔されてはならない」

 当時の王子製紙社長は渋沢栄一だったが、実際に業務を握っていたのは専務・大川平三郎。栄一の甥っ子で、娘婿である。

 叔父が創った会社を任されている大川と、それを三井のものにしようと企む雷太。当然、両者の仲はうまくいくはずがなく、感情の上でも仕事の上でも衝突することが少なくなかった。

 そこで雷太は渋沢を訪れ、「私が三井を代表して入社以来、新しい人も採用したから社内に二派が出来たようで、どうも物事がうまく運ばない。はなはだ言いづらい話であるが、あなたに王子製紙の社長をやめてもらいたい」と直談判に及んだ。

 これにはさすがの栄一も驚き、「それは君の考えか、三井の考えか」と尋ねた。

 雷太は「もちろん、専務取締役として私個人の考えである。そのわけはあなたが辞職してくださらなければ、会社の前途が安全でありません。大川君が専務取締役としてあなたのところに先に行き話を決めてくれば、ほかの重役は盲判を捺(お)すばかりで、私は責任をもって経営することができません」と理由を述べた。渋沢はしばらく考え、「話はよくわかった。早速重役会を開く手続をせよ」と応じ、大川平三郎を取締役技師長工場主管に降格した。

 大川失脚後、大川派の職工が内紛を起こし、その責任を取る形で大川は辞職。ここに、王子製紙は完全に三井の掌中に落ちた。

福沢諭吉と渋沢栄一の甥っ子たちが繰り広げた仁義なき戦い…王子製紙を舞台に乗っ取り戦争の画像1
戦後に外務大臣や自民党総務会長などを歴任した藤山愛一郎は雷太の長男。また雷太のひ孫のひとりである日本交通公社会長の川鍋一朗は、元総理大臣・中曽根康弘の孫と結婚している。

自分を追い出した藤山雷太を、大日本製糖の社長に指名する、渋沢栄一のあっぱれな度量

 近代日本の財界を代表する渋沢栄一を、かれのつくった会社から追い出そうというのだから、藤山雷太の胆力には恐れ入る。これを承諾した渋沢の度量もあっぱれというほかない。しかも、この話には続きがあったのである。

 翌明治30(1897)年に雷太は脊椎カリエスという大病を患い、余命3年を宣告された。結局、難病は治癒したが、心身衰えている間に職工はストライキを起こし、明治34(1901)年に後ろ盾の中上川彦次郎が死去。雷太の心労はピークを迎え、明治35(1902)年に雷太は王子製紙を辞し、三井から去った。

 その7年後の明治42(1909)年、日本を代表する企業・大日本製糖が一大疑獄事件に巻き込まれ、社長が自殺するという危機的状況に陥った。その時、同社相談役・渋沢栄一がこの難局を乗り切れる人材として、藤山雷太を後継社長に指名した。自分を王子製紙から追い出した、憎い男(?)の胆力を信じたのである。

 藤山雷太は悲壮な覚悟で大日本製糖社長に就任。企業再建を成功させ、製糖業を戦前日本の三大産業(電力、紡績、製糖)のひとつといわれるまでに育成した。大日本製糖を中心とする企業グループは、藤山コンツェルンと呼ばれた。

 ん? 結局は福沢諭吉の甥っ子の義弟と渋沢栄一本人との企業争奪戦ではないかと。まぁ、確かにそうなのではあるが、甥っ子同士の代理戦争ではあるので、ご勘弁願いたい。

(文=菊地浩之)

家康はなぜ「徳川」を名乗ったか…ニューイヤー駅伝から考える、群馬に徳川町があるワケの画像3

●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)など多数。

情報提供はこちら
RANKING
  • ジャーナリズム
  • ビジネス
  • 総合