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ショパンコンクールで51年ぶり快挙…反田恭平さんの日本人離れした力強い音の源

文=篠崎靖男/指揮者
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 ショパン・コンクールは1927年に始まって、基本的に5年に一度開催されており、現存する国際ピアノコンクールのなかでは世界最古とされています。テニスでいえば一番古く、伝統と名誉あるウィンブルドン選手権のような特別な存在なのです。

 その歴史は、第一次世界大戦の終結を経て1918年にポーランドが一国家として独立を果たした9年後、同国が誇る作曲家ショパンの作品のみで審査するという、ほかでは見られないユニークなピアノコンクールとして発祥しました。ちなみにポーランドは、大国ロシアやドイツに挟まれている地理的状況もあり、歴史的に大国の領土的野望に振り回され続けてきた国です。18世紀にはロシア、ドイツ、オーストリアに三分割されたのち、ナポレオンの台頭により一時フランスの衛星国のような存在となりますが、その後、1815年にナポレオンのロシア遠征失敗の結果、ロシアの属国となっていました。

 そんなロシア下のポーランドでショパンは1829年に「ピアノ協奏曲第2番」、翌30年3月に「ピアノ協奏曲第1番」を初演します。しかし同年11月2日に突然、祖国を離れてしまうのです。そのわずか20日後にポーランド独立を目指した暴動が起こるのですが、そのときショパンは「二度と祖国の土を踏むことはないだろう」と予想し、すでにオーストリアのウィーンに逃げていました。

 そして、当地で暴動のニュースを聞き、「父の重荷にならないのであれば、すぐワルシャワに帰るのだが」という内容の手紙を、祖国に残っている友人に送っています。ここに多くの歴史学者が抱く疑問があります。なぜ、彼の帰国が父親の重荷になってしまうのでしょうか。

 実は、ショパンには独立運動に関わっている友人がたくさんいました。もしかしたら、ショパンもその一人だったのかもしれませんが、暴動の計画をあらかじめ知っていた友人たちが急遽、ショパンを海外に逃がしたという説があります。翌年には暴動は鎮圧されてしまいますが、そこでショパンが政治犯としてブラックリストに載ってしまったことは容易に想像できるのです。

 その後、ピアニスト兼作曲家として高い名声を得たにもかかわらず、いまだロシア下のポーランドでは政治犯となってしまうので、ポーランドに戻ることはできなかったのかもしれません。実際に生涯、強い望郷の念を持ち続けていたショパンですが、祖国の土地を再び踏むことはありませんでした。

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