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誰も知らないアントニオ猪木の真実…根治困難な全身性の難病の正体、有効な薬も乏しく

文=編集部、協力=上昌広/血液内科医、医療ガバナンス研究所理事長

「両団体がスタイルの違う要素を持ったことで、嗜好の異なるファンの受け皿が広がり、結果としてプロレスファンの裾野を広げたことは事実。ちなみに袂を分けた2人が、日本プロレス退団後に戦ったことはないが、79年頃に1度だけ馬場猪木のシングルマッチの話が浮上し、実現直前まで進んでいたことは複数の証言者によって明らかにされている。

 よく2人はずっと敵対関係にあったと思われがちだが、いがみ合っていたわけではないし、対面で会えば“兄貴と弟”という関係に戻っていたといわれている。馬場は猪木の5歳年上でBI砲として日本プロレスの看板レスラーだったのと同時に、それこそ寝食を共にしていた。ただ、日本プロレスでは常に猪木は馬場に次ぐナンバー2という位置づけで、団体も何かと馬場を優遇していたため、猪木のほうがずっと馬場に対して複雑な感情を抱いていたという見方もある。

 直接対決の話も、完全に猪木のほうから方々に話を仕掛けていたもの。読書家で現実派の馬場とは対照的に、ギラギラとした野心のようなものが常に猪木をかきたて続けていた。それが異種格闘技戦の実現や政界への進出などにつながったのではないか」(スポーツ紙記者)

 そんな野心が結実したのが、76年から始まった「格闘技世界一決定戦」だ。猪木は当時の日本では前代未聞の異種格闘技戦を実現。各格闘技界のトップクラス選手との戦いに挑み、“熊殺し”の異名を持つ空手家ウィリー・ウィリアムスやボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッド・アリらと死闘を繰り広げ、アリ戦は世界各国に中継された。ちなみに、のちに猪木はプロデューサーとして「PRIDE」の運営に携わり、日本に異種格闘技戦というスタイルを定着させていくことになる。

 その後、猪木は、98年に東京ドームで行われたドン・フライとの引退試合まで、新日を牽引しながら数々の名勝負を繰り広げる傍ら、89年には江本孟紀らとともにスポーツ平和党を結成し、参議院選挙に出馬、当選し政界への進出も果たす。

「自身の引退に向けたシリーズ『INOKI FINAL COUNT DOWN』の第1戦で猪木は、グレート・ムタに扮した弟子の武藤敬司と激突。ムタから顔面に毒霧を浴びせられ、場外の記者席の上でパイルドライバーを食らわせられたり、鉄冊にぶん投げられたりした猪木が、額から流血しながらマジでブチ切れして武藤をチョークスリーパーで落とした。猪木、そして猪木のDNAを引き継いだ武藤の凄みを感じる試合だった」(スポーツ記者)

 まさに“燃える闘魂”を地で行くような熱い人生を送ってきた猪木だが、今年1月からは腰の悪化で入院が続いており、5月には腸捻転で緊急手術を実施。ベッドの上から更新を続けていたYoutube動画内のやせ細った猪木の様子には心配の声も寄せられていたが、今回のNHK番組では難病とも戦っていることが明らかとなった。

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11:30更新
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