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大島優子演じる渋沢栄一の後妻・兼子の多才な息子達…いすゞ創業、田園調布開発、東宝会長

文=菊地浩之
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実業之日本社から1959年に刊行された、渋沢栄一の五男・渋沢秀雄著の『父 渋沢栄一』。息子の視点から描かれる渋沢栄一の生涯。NHK大河ドラマ『青天を衝け』と見比べてみるのも一興かも。(画像は2019年に発行された同書の文庫版表紙より)

渋沢栄一の後妻・兼子の子ども2…渋沢正雄は起業に大失敗した後、いすゞ自動車の設立に尽力

 四男・渋沢正雄(1888~1942年)は一高の英法科から東京帝国大学法科大学経済科(現・東京大学経済学部)を卒業し、1915年に第一銀行に入行した。

 栄一は数多くの企業を設立したが、やはり第一銀行を渋沢家の家業と考えていたようだ。子どもの誰かに銀行を任せたかったのだろう。次男の渋沢篤二を後継者と考えていた時期もあったのだろうが、1913年に廃嫡してしまった(渋沢家の家督相続人から廃す)ので、正雄に一縷の望みを託したのかもしれない。

 ところが、正雄は2年後に退職して渋沢貿易会社を興す。さんざん企業を創ってきた栄一の子どもである。レールを敷かれた人生より、起業を選んだのだろう。だが、起業は2年も持たず、1919年に破綻。謹慎の後、1922年に東京石川島造船所取締役に就任した。飛行機・自動車部門への進出を主担当としていたようで、1924年に石川島飛行機製作所を設立して初代社長に就任した。また、1929年に石川島自動車製作所(現・いすゞ自動車)の設立に尽力し、初代社長に就任している。

 正雄は富士製鋼の社長を兼ねていたが、1934年に国内の製鉄会社が大同合併して日本製鉄が設立されると、兼職を辞して日本製鉄の経営に専心し、常務・八幡製鉄所長に就任した。

 所長職は激務だったらしい。「渋沢所長は八幡に行ってわずか三、四カ月後、東京の知人がたずねて行ったところ、げっそりやせていたので、その知人はなるほど八幡というところは噂にたがわず、むずかしいところらしいと感じたそうだが、在任一年余りで昭和十七年九月十日、名古屋の病院でなくなってしまった」(小森田一記 『渡辺義介伝 三鬼隆伝』東洋書館)。

渋沢栄一の後妻・兼子の子ども3…渋沢秀雄は田園調布開発に携わった後、クリエイティブな才を生かし東宝会長に

 五男・渋沢秀雄(1892~1984年)も一高の仏法科に進んだ。科は違うが同期に作家の芥川龍之介、久米正雄、歌人の土屋文明がおり、本人も文学方面に興味があったようだ。

 東京帝国大学法科大学仏法科(現・東京大学法学部)に進んだものの、2年目に「法科から文科に移って、フランス文学を専攻したくなった。そこで両親に話したところ、(中略)父はこんな意味のことを言った。『お前は法律を勉強して、大学を卒業するだけの能力を持っているらしう見受けられるから、今のまま法科を卒業して実業界で働いてもらいたい。文学や絵画は趣味の程度にとどめておいてくれないか。これは命令ではないよ。儂(わし)が頼むのだよ。』高圧的に相成らんと言われれば、気の弱い私でも反発したろう。しかし社会の公人であり一家のオールマイティーである父に拝み倒されると、私は意気地もなく腰砕けになってしまった」(渋沢秀雄『明治を耕した話―父・渋沢栄一』青蛙選書)。

 秀雄は1917年に卒業すると日本興業銀行(現・みずほ銀行)に入行した。兄・正雄が起業する年なのだが、まだ第一銀行に在職していたのかもしれない。兄が退職していたら、やっぱり第一銀行に入れられて、やっぱり退職しているだろう。なぜなら入社2年目に「中耳炎を患い、数カ月も欠勤したので退職した」(上掲書より)というのだ。渋沢兄弟は揃いも揃って銀行業に向いていなかったらしい。

 そして、1919年に「父が創立発起人総代になった田園都市株式会社へ入れて貰う。銀行や会社に興味の持てない私も、町を造る会社という点に惹かれたからだ。その準備に私費(といっても父から貰ったものだが)でアメリカとヨーロッパを一巡し、郊外住宅地、工場住宅地、田園都市などを見学してきた」(上掲書より)。帰国後、秀雄は同社取締役に就任した。

 田園都市株式会社という風変わりな名前のこの会社は、大正時代の初めごろ、渋沢栄一が商工会議所会頭としてアメリカを視察し、帰国後に「日本でも田園都市というものをつくったら面白い」との発想から、その構想の実現のために設立したものである。そして、田園調布に約40万坪、さらに洗足に約5万坪にのぼる土地を買収して、田園都市計画を立ち上げた。日本で最も有名な高級住宅街・田園調布を開発したのは、渋沢栄一だったのである。

 1928年から秀雄は油絵を春陽会に出品し、1936年には処女作『熱帯の旅』(岡倉書房)および『父を偲ぶ』(社会教育協会)を刊行。随筆作家としても活躍しはじめる。

 渋沢家の御曹司で、エンターテインメントに造詣が深い人材を世間が放っておく訳がない。1937年に東宝の前身・東宝映画が設立されると、秀雄はその監査役に就任。その翌年には東京宝塚劇場取締役会長に就任。東京宝塚劇場と東宝映画が合併して東宝が誕生すると、秀雄はその会長に就任する。第二次世界大戦が終戦を迎え、東宝会長の辞任を余儀なくされると、今度は東映が取締役に招聘してくれる。やはり「芸は身をたすく」である。

 戦後は東映の役員を務めながら、各種の審議会にひっぱりだこで、日本民間放送連盟民間放送番組審議会委員(つまり、テレビ局開局の審議会)に就任し、以降、テレビ・放送関連の審議会、委員会を歴任。東京放送(TBS)、日本教育テレビ放送(全国朝日放送、テレビ朝日)の設立に関わった。

 随筆集などを50冊近くの書籍を刊行し、1973年からは松坂屋で毎年絵画個人展を開催するなど、めぐまれた人生を送った。

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