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神田沙也加さんの悲劇に想う、ジャーナリズムや小説が「有名人の死」を扱う意味

文=沖田臥竜/作家
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他人の不幸な死から伝えることができるもの

 そして、ドラマ『ムショぼけ』でヒロインが自殺を遂げる回が放送される前日、実社会においても、我が友が自ら命を断つという経験をした。物語の中で、ヒロインは最期に主人公と連絡を取る。実社会でも、友は最期に私に連絡をしてきた。両者がリンクしたのだ。ただ異なったのは、物語では、ヒロインからの最期の連絡を受けたあと、主人公はさまざまな葛藤を抱きながらも、彼女を信じ、その後も連絡をずっと待ち続けた。一方、実社会の私は、友からの普段とは異なる様子の電話が切れた後、万が一の時に後悔だけはしたくないという想いが強く、友の携帯電話の充電が切れるまで、呼び出し音を鳴らし続けた。

 結局、だからといって気持ち的に救われることはない。それが人の死に接するということ。救えたかもしれないという思いの中で、大事な人を失うということなのだ。そうして、人は命の儚さや尊さを学んでいくのである。それらは、たとえ何度経験しても慣れることはないし、学び終えることはないことだ。

 12月18日深夜、知り合いの記者から、神田沙也加さんが北海道でホテルの高層階から転落したという連絡を受けた際、私は大阪で起きたクリニック放火事件の取材にあたっている最中であった。いずれも、まだニュースなどで報じられる前の話だ。

 自分は小説だけでなく、ジャーナリズムの現場にも携わる物書きだ。広く、深く情報を扱う会社も経営している。そんな立場で、このような重大ニュースを、テレビで報じられてから知るようなことはあってはならない。第一報をテレビで知らされたとしても、それ以上の詳細な情報や報道されないニュースの裏を知る必要があるのだ。すごいとか偉いとかの問題ではなく、情報に携わる人間の最低限の務めである。そして、それに対する分析ができなければ何の意味もないのだ。錯綜する情報に、ミーハー気分で面白おかしく接し、いちいち驚いていては事の本質などには到底辿り着くことはない。

 神田さんは自ら死を選んだという見方が強いが、真相はわからない。だが、数年前にマスコミの間では、今回の件にもつながるかもしれない、あるトラブルについて囁かれたことがあった。また、神田さんの精神状態を危惧する声もあった。仮の話でしかないが、彼女に関するそうした認識を周囲が持っていれば、今日の彼女をめぐる環境も変わっていたかもしれないという思いが募る。

 マスコミは、なんでもかんでも報じるわけではない。そして、報じることが、報じられた本人や社会にとってプラスなのかマイナスなのかは、その時点では評価できない。また、社会的評価云々とは別に、仕事だからこそ、マスコミは報じたがるというのも事実である。それがジャーナリズムだと大それたことをいう気など、私はさらさらない。そこにもちろん理解などいらないし、世間から必要とされなければ、マスコミは存在していないし、そのうち消えていくだろう。単純にそれだけの話だ。

 だが、辛い現実にぶつかることや批判されることを避けて、マスコミや物書きが、必要であると思ったことを報じたり、語ったりすることを止めてはいけない。他人の不幸な死であろうとも、そこから命の儚さや尊さを伝えることはできるはずだ。

 生きていくということは、辛いことでもある。ただ生きていくということは、1人ではないのだ。その人がいなくなれば悲しむ人間は存在するし、迷惑がかかる人もいる。死んだ人の気持ちはわからないし、それほど思い詰めていたこともあるのかもしれない。中でも有名人の死は、人々を途方に暮れさせるが、それでも私は自ら死を選択するべきではないと強く感じる。人の死を見て、それに悲しむ人々を見て、そう思うのだ。

 そして、今はただ安らかにと――。

(文=沖田臥竜/作家)

●沖田臥竜(おきた・がりょう)
2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。最新小説『ムショぼけ』(小学館)を原作にした同名ドラマ(ドラマ『ムショぼけ』朝日放送、テレビ神奈川)の好評を博した。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

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