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「偉人たちの診察室」第17回・石原莞爾

精神科医が語る、石原莞爾“ADHD”の可能性…成績優秀と奇行、東條英機を罵倒して左遷

文=岩波 明/精神科医
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陸軍軍人から首相、そして1948年、A級戦犯として処刑された東條英機。“努力家で真面目”とされる彼は、天才肌でカリスマ性あふれる石原莞爾とはそりが合わなかったのか。(画像はWikipediaより)

陸軍士官学校を卒業、給料日には借金取り、過去の戦史やマルクス主義関連書籍などなんでも読みあさる

 明治40(1907)年、石原は陸軍士官学校に入学した。あいわからず上官への反抗や侮辱などを繰り返すなど、以前と同様に生活態度は悪かった。剣道の試合で、教官と組打ちになり、相手の急所をにぎって気を失わせたこともあった。

 陸軍士官学校を卒業した後は、山形をへて会津若松の部隊に赴任になる。ここで石原は料亭でよく遊ぶようになり、給料のほとんどを使い尽くした。給料日には借金とりが押し寄せてくるので、当座の小遣いだけ抜いて、あとは早いものがちにと給料袋のまま渡していたという。

 軍隊時代の石原は末端の兵士のことをよく考える士官で、行動は合理的であった。石原が京都第16師団長のときのことである。陸軍記念日には、通常は閲兵式・分列行進で3時間かかる式典を行うのが通例であったが、石原は指揮官1人とともに各部隊の前面を馬を駆け足で走らせて閲兵を済ませ、式典を5分程で終えてしまったという。

 一方で上官に対しては、自分の意見を大声で直言した。二・二六事件のときには、上官である荒木貞夫に対し石原は「ばか! お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけたことが知られている。

 また一方で石原は非常に勉強熱心であり、毎朝5時に起床して、過去の戦史などを研究し、マルクス主義など当時の新しいテーマを扱った本も熱心に読んだという。

東條英機に対し「憲兵隊しか使えない女々しい奴」、太平洋戦争直前に左遷

 1932(昭和7)年3月、国際連盟からリットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣され、満州国に関しての現地調査を行われた。1933(昭和8)年2月、リットン調査団の報告書をもとに、満州国の存続を認めないという勧告が国際連盟から提出された。このため同年8月、日本は国際連盟を脱退した。

 1937(昭和12)年の日中戦争開始時、石原は参謀本部第一部長であったが、強硬路線を主張する部下を抑えきれず、早期和平の方針で参謀本部をまとめることはできなかった。

 石原は同年9月に関東軍参謀副長に任命されて着任したが、参謀長の東條英機との路線対立が深まり、最終的には1938(昭和13)年には参謀副長を罷免されている。石原の東條への侮蔑は徹底したもので、「憲兵隊しか使えない女々しい奴」などと罵倒、東條を無能呼ばわりしたため、修復不可能な仲となっていたという。

 1941(昭和16)年3月に石原は現役を退いて、予備役へ編入されることとなった。この先、日本軍は泥沼となった日中戦争に加えて、太平洋戦争にも突入することとなる。

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