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「偉人たちの診察室」第19回・源頼家

精神科医が語る北条政子“子殺し”の裏にある怒りと、源頼家「毒殺説」の真相

文=岩波 明/精神科医
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のちに「尼将軍」として君臨し、強大な権力を握っていく北条政子。“悪女”という評価もあるが果たして……。(画像は江戸時代の絵師・菊池容斎による北条政子【Wikipediaに掲載】より)

『吾妻鏡』に見える将軍・源頼家の“愚行”は真実か…母・北条政子に叱責される頼家

 源頼家は寿永元(1182)年8月に、鎌倉で生まれた。父は鎌倉幕府の開祖である源頼朝、母は北条政子である。建久10(1199)年に頼朝が突然死去し、頼家が18歳で家督を継いだ。頼朝の死因は落馬によるものと伝えられているが、詳細は不明で不審死(暗殺?)であった可能性も指摘されている。

 頼家が後継者になって間もなく、政務に関しては北条時政を中心とした有力御家人13人による合議制がしかれていたが、御家人同志の対立がひんぱんにみられていた。『吾妻鏡』には、頼家が妻の一族である比企氏を重用し独裁的判断を行った挿話が述べられているが、この書は北条氏寄りの文書であるため、客観的な事実かどうかは不明である。

 もっとも、頼家が比企氏を頼りにしていたのは事実である。頼朝の乳母は比企氏の女性(比企尼)で、伊豆に流されてからも、比企氏は頼朝を経済的に援助していた。北条義時の妻も、比企家の女性であった(「比企能員の乱」により離縁となっているが)。

 頼家が家督を相続して3カ月後、先述の通り北条時政らによる御家人13人の合議制がしかれ、頼家が独断で訴訟を裁断することが禁じられた。頼家はこれに反発し、みずからに近い武士団をとりたてようとしたが、有効な対応策は打ち出せなかった。

『吾妻鏡』には、頼家の「愚行」が記載されている。具体的には、安達景盛の愛妾の女性を強引に自分のものにしたこと、理由もなく景盛を討とうとしたこと(これは政子に止められたという)、蹴鞠に興じて政務を省みなったことなどが述べられていうが、これらも北条氏寄りの記述と考えられ、どこまで事実を反映しているのか疑わしい。政子は頼家に次のように述べたと伝えられている。

 昨日景盛を誅しようとした行為は、誠に粗忽の至りです。あなたの今の態度を思うに諸国守護の権を全うできると思われません。政道を省みず色におぼれ、人の謗りを招く行為ばかりが目立ちます。また近仕の輩は邪侫の連中ではないか(『北条政子』ミネルヴァ書房)。

 建仁3(1203)年5月、頼家は弟である千幡(源実朝)の乳母、阿波局の夫である阿野全成を謀反人として逮捕し殺害した。さらに阿波局を拘束しようとしたが、阿波局の姉である北条政子が拒否しそれには至らなかった。阿野全成は源頼朝の異母弟で、頼家にとっては自分の地位を脅かしかねない人物だった。

源頼家の「病気」をきっかけに比企一族が滅亡…北条時政によるクーデターの成功

 この事件をきっかけとして、北条氏側の反撃が本格的に開始された。この時期、体調不良が続いていた頼家は、7月半ば過ぎに「急病」にかかり、一時は危篤状態に陥った。健康であった20代の青年が突如このような重病に罹患すること自体不自然である。

 さらに頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」との報告が9月7日に京都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請された。鎌倉からの使者が出発したのとほぼ同時に、9月2日、鎌倉では頼家の妻の父親である比企能員が北条時政によって暗殺され、さらに比企一族が滅ぼされて頼家の息子の一幡も殺害された。一人残された頼家は事件を知り激怒して時政討伐を命じるが従う者はなく、将軍の地位を追われて伊豆に幽閉された。北条時政によるクーデターが成功したのである。

『吾妻鏡』によれば、北条氏に不満を抱いた能員が北条時政討伐を企てたが、病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は能員を呼び出して殺害、さらに比企一族を滅ぼしたと記載されている。

 しかし実際は、比企氏による陰謀は存在せず、比企氏の力が強大になることを恐れた北条氏が、頼家の「病気」をきっかけとして、比企一族を滅ぼしたというのが真相のようである。伊豆の修禅寺に幽閉された頼家は、その後暗殺された。『愚管抄』によると、「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき」と述べられている。頼家の最後の日々については、明治時代の劇作家、岡本綺堂が戯曲『修善寺物語』としてまとめている。

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