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「偉人たちの診察室」第19回・源頼家

精神科医が語る北条政子“子殺し”の裏にある怒りと、源頼家「毒殺説」の真相

文=岩波 明/精神科医
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鎌倉幕府3代将軍・源実朝。源氏による支配はわずか3代しか続かず、頼朝の征夷大将軍就任後、30年もたたずに途絶えてしまった。(画像はWikipediaより)

源頼家の失脚、弟・実朝の暗殺…北条氏によって根絶やしにされる源氏一族

 頼家の失脚後、弟の実朝が将軍職を引き継ぎ、北条時政邸において12歳で元服した。元久元(1204)年12月には、京都より後鳥羽帝のいとこに当たる信子を正室に迎えた。建保6(1218)年1月、実朝は権大納言に任ぜられる。さらに10月には内大臣、12月には右大臣に昇進した。武士としては初めての右大臣であった。

 この時期、北条氏の力はさらに強大なものとなり、対抗できる御家人はすべて滅ぼされるか失脚するかしている。実朝の時代、問題となったのは朝廷との関係である。生まれながらの「貴種」である実朝は、妻が皇族出身であったこともあり、宮廷へのあこがれが強かった。みずから和歌を詠み、歌人として名をなすだけでなく、「治天の君」であった後鳥羽上皇にさまざまな案件を相談するようになった。

 このような実朝の朝廷重視の姿勢が、北条氏あるいは他の御家人の不興を買い、暗殺の直接、あるいは間接的な原因になったと考えられている。

 建保7(1219)年1月27日、右大臣への昇任を祝う拝賀の催しが鶴岡八幡宮で行われた。その退出の最中、実朝は「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われて絶命した。享年28(満26歳)であった。公暁は次に実朝の側近であった源仲章を切り殺して逃亡したが、その後捕えられて殺害されている。この暗殺事件の黒幕については、北条義時、三浦義村など諸説がある。

 実朝の暗殺後には、源氏の「残党」の一掃が北条氏によって行われた。事件からひと月後、阿野全成の息子である阿野時元が北条氏の手勢に討たれ、さらに公暁の弟である禅暁も北条氏により京都に送られ殺害されている。

源頼家の“病”とはなんなのか?…代謝性疾患、中毒性疾患の可能性、北条氏が毒殺を試みたか

『吾妻鏡』には、頼家の「病」の記載が繰り返しみられる。けれども、その症状や内容についての説明は述べられていない。『吾妻鏡』によれば、頼家の「病」は悪化と改善を繰り返し、一時は、危篤とみなされるほど悪化した。ところがその状態から、頼家は後遺症もなく回復している。

 それまで健康であった20歳前後の青年において、このような経過をたどる疾患といえばどのようなものが考えられるであろうか。生命の危機を伴うということなら、脳血管障害、心臓疾患、悪性腫瘍などが候補となるが、その後の回復状態からは考えづらい。可能性のある疾患としては、代謝性疾患、中毒性疾患などである。これらは一過性に意識障害をもたらすことはあるが、回復可能である。以下に『吾妻鏡』において、頼家の病に関する記述に関する見出しを挙げておく。

1203年3月 頼家、病悩。頼家、連日蹴鞠に興じる
1203年5月 阿野全成、謀叛の風聞により拘禁される
1203年7月 頼家、病悩
1203年8月 頼家、危篤となり領国譲渡の措置 比企能員、叛逆を企てる
1203年9月 比企氏の乱が起こる 頼家、出家
1204年7月 頼家、修善寺にて死す 頼家の御家人が誅殺される

 1203年3月においては、10日「昨夜の亥の刻から、将軍家が急にご病気になった」、14日「将軍家は、ご病気が治った後に沐浴された」との記載がある。7月については、20日「戌の刻に将軍家が急にご病気となり、ご気分の苦痛はただごとではないという」、23日「ご病気は、もはや危険な状態であるので、数種の御祈祷が始められた」と述べられている。

 このように頼家の病気の発症は、「急な発症」と症状の進展という特徴があり、慢性疾患の悪化とは考えられない。ここからはまったくの推測になるが、頼家は北条氏の手のものによって毒殺されそうになったが、そこから回復した……と考えるのが、いちばんあり得そうな話である。

家康は『吾妻鏡』に学び、徳川秀忠が源頼家のようにならぬように苦心した

 江戸幕府の創設者である徳川家康は、『吾妻鏡』の愛読者であった。改めて考えてみると、家康は『吾妻鏡』を反面教師として、江戸幕府の体制を整備したと考えられる。源氏の本家が断絶した歴史を鑑みて、家康がいちばん悩んだ点は、いかに徳川家の支配を存続させるかという点だったであろう。

 そこで考案されたのが例えば、「御三家」という血のスペアの制度であり、これがのちのち、徳川本家の窮地を救うこととなった(徳川吉宗はさらに、御三家をコピーした「御三卿」という制度を作っている)。加えて、武家間の無用な争いごとを防止し反乱の目を事前に摘むために、「武家諸法度」等で大名を厳格に管理する制度の制定も行っている。また仮に将軍は無能な飾り物であっても、部下の官僚システムにより安定した行政が継続できるようにした点も、家康の功績だった。

 家康は『吾妻鏡』に学び、秀忠が頼家にならぬように、徳川幕府が鎌倉幕府にならぬよう苦心したのである。

(文=岩波 明/精神科医)


岩波 明/精神科医

岩波 明/精神科医

1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の   診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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