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「偉人たちの診察室」第20回・北条政子

精神科医が語る北条政子の“パラノイア”…被害妄想に取りつかれ源頼家ほか源氏一族を粛清

文=岩波 明/精神科医
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北条政子・義時の父であり、源頼朝の舅である北条時政。名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を、一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた。(画像は江戸時代の絵師・歌川芳虎による「大日本六十余将」より「伊豆 北條相摸守時政」【Wikipediaに掲載】より)

「謀反の疑い」から始まった鎌倉時代初期の“政変”は、ほとんどが北条氏側の謀略

 源頼朝の屋敷は、大倉地区に建設された。大倉は鶴岡八幡宮の西側、八幡から徒歩数分の距離にある。当初は父・源義朝の屋敷があった亀ヶ谷が候補地であったが、手狭であったため、この地が選ばれたという。建物は武家の屋敷というよりは、一般的な貴族の邸宅であった。

 この大倉御所は、火災により数度消失し、当初は再建されたが、その後、二階堂大路仮御所、宇津宮辻子御所、若宮大路御所と何度か移転を繰り返した。

 政子の父である北条時政の邸宅は名越にあった。現在の鎌倉駅からJR横須賀線は逗子に向かうが、その横須賀線と並走するように走っていたのが名越街道である。この名越という地名は、「難越」(越え難し)が由来になったという。

 時政の屋敷は名越邸と呼ばれ、名越街道よりも北側に位置していたらしい。しかし、長年「北条時政名越邸跡」といわれてきたのは、近年の発掘調査の結果、実際よりもずいぶんとあとの時代にそう指定されたにすぎないことがわかった。しかしいずれにせよ、この名越周辺が北条氏ゆかりの場所であること自体は確かなようだ。

『吾妻鏡』には、源実朝がこの時政の名越邸で生まれたことや、比企の乱において比企能員が謀殺されたのもこの場所であることが記載されている。実朝の元服の儀式もこの館で行われた。時政の失脚後、この邸宅は義時が引き継ぎ、義時の子である北条朝時から始まる名越氏がここを本拠地とした。鎌倉の中心部から時政邸までは、徒歩で30分あまりの距離である。

 北条氏の権勢を確立した北条義時、北条泰時の当時の邸宅は、先述した通り頼朝の大倉御所と鶴岡八幡との間にあったことが知られている。つまり鎌倉時代初期に起こった源氏一族の内部抗争や有力御家人の粛清は、ほとんどがこの鎌倉中心部の狭い一角で計画され、実行されたものだということだ。鎌倉エリア内でもし謀反の動きでもあれば、またたく間に多くの関係者の知るところとなる。要は、挙兵の準備や武器の調達などの怪しい動きを、狭い鎌倉の地で隠れて行うことなど、ほぼ不可能なわけである。

 鎌倉時代初期の政変は、謀反の疑いがあるという讒言から始まっているものが多い。梶原景時の事件、比企氏の乱もそうである。しかし、謀反の具体的な証拠などはほとんど示されていない。よく知られている通り、実態のない謀反がでっち上げられ、多くの有力御家人が葬られていったということだ。その噂は、多くは北条政子やその関係者から始まっている。事件の捏造は対立する陣営が行うこともあったが、多くは北条氏側の謀略であったのである。

北条時政の長女・北条政子は源頼朝と結ばれ、頼朝は“鎌倉殿”へ、そして政子は“御台所”となる

 北条政子は伊豆の豪族、北条時政の長女である。母は特定されていない。源頼朝と結婚するまでの期間について、確かな史料は存在していない。

 そもそも時政以前の北条氏については、確かな情報はほとんどない。発祥は伊豆の韮山であり、平家を祖先にしていることは確かなようである。韮山には北条という地名があり、北条氏ゆかりの史跡が存在している。

 北条時政は、伊豆の官職についていたが、大番役(朝廷の警備)のため在京中に政子が頼朝と結ばれてしまう。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には反対していたが、最終的には認め、それ以降、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。この決断が、のちに北条氏が世に出るきっかけとなっていく。

 治承4(1180)年、後白河天皇の第三皇子、以仁王が平家打倒を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられ、これに応じる形で頼朝は挙兵する。いくつかの戦いをへて、この年の10月に頼朝は鎌倉に入った。その後、関東地方を制圧、頼朝は東国の主となって鎌倉殿と称され、政子は御台所と呼ばれるようになった。

 政子は頼朝との間に4人の子をもうけた。息子の頼家、実朝は成長して将軍に就任するが、いずれも非業の死を遂げた。さらに娘2人も若くして死去し、政子はすべての子に先立たれている。

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