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「偉人たちの診察室」第20回・北条政子

精神科医が語る北条政子の“パラノイア”…被害妄想に取りつかれ源頼家ほか源氏一族を粛清

文=岩波 明/精神科医
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鎌倉幕府2代将軍・源頼家。政子は実子である頼家や実朝の殺害計画に積極的に加担したのだろうか? (画像は京都・建仁寺所蔵の源頼家像【Wikipediaに掲載】より)

実の子である2代将軍・源頼家と北条政子との対立…そして頼家は失脚し、比企一族は滅亡する

 建久10(1199)年1月、頼朝が突然死去した後、長男の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼御台と呼ばれた。幕府の支配構造は不安定となり、2代将軍頼家の乳母の一族である比企家の力が増大した。この時期、幕府中枢で起きた事件を見てみると、政子は実子である頼家と積極的に敵対し、彼を追い落とす役割を果たしていることがわかる。

 同年、頼家が部下の御家人、安達景盛の愛妾を奪って寵愛するという事件が起きた。このとき政子は仲裁に動くのではなく、積極的に頼家の非を訴えた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して強引に決着をつけようとしたが、政子は両者の融和を図ることもなく、「まず私を殺せ」と頼家に挑発的な発言を行った。安達氏は頼家側の御家人であったため、政子は騒ぎを大きくし、頼家から離反させようとしたように見える。

 この愛妾事件の直後、頼朝の側近であり頼家を支えた有力御家人のひとりである梶原景時が粛清された。政子の妹である阿波局の讒言をきっかけに、人望のなかった景時は他の御家人たちに弾劾され、翌年、鎌倉を去ることとなる。京都を目指した梶原一族であったが、静岡で戦闘となり、滅ぼされてしまう。

 建仁3(1203)年、頼家は攻勢に出る。頼朝の弟でみずからの叔父であり、出家して真言密教の僧となっていた阿野全成を謀反の罪で捕えたのである。全成は北条政子の妹を妻とし、みずからの弟・実朝の後見人を務めていた。全成は常陸国に配流となり、まもなく殺害された。

 頼家は全成の妻である阿波局も捕えようとしたが、これは政子によって拒否された。そもそもこの「阿野全成事件」についても、全成に実際に謀判の計画があったのかどうかは不明である。しかしともかくこの事件がきっかけとなり、北条氏は危機感をつのらせることとなり、これがさらなる悲劇を招くこととなっていく。

 北条時政らは頼家の後ろ盾となっていた比企家の当主を謀殺し、比企一族を全滅させ、頼家の長子である一幡(政子の孫にあたる)も殺害する。さらに頼家を出家させて伊豆に追放し、その後暗殺したのであった。

『吾妻鏡』によれば、北条氏に不満を抱いた比企能員が北条時政討伐を企てたが、頼家と能員による北条氏討伐の密談を立ち聞きしていた政子が時政に報告。先手を打った時政は能員を呼び出して殺害し、さらに比企一族を滅ぼしたのだと記されている。

 この密談は、当時の鎌倉幕府の文官トップであった大江広元の屋敷で行われていたという。しかし、当然ながら多くの人が出入りしていたはずであり、政子のみがこれを聞いたというのはきわめて不自然だ。実のところ、比企氏による陰謀など存在せず、比企氏の力が強大になることを恐れた北条氏が比企一族を滅ぼした、というのが真相であろう。さらに比企家に軍勢を派遣したのは政子であったことが『吾妻鏡』には記されていることから、比企の乱全体を主導したのは時政でも義時でもなく、政子だったのであろう。

3代将軍・源実朝の暗殺、源氏一族の粛清、そして北条政子は「鎌倉殿」へ

 頼家の死後は、頼家の弟である実朝が3代将軍に就任した。しかし政治の実権は北条氏が握り、時政がその中心にあったが、実朝と政子・義時との間にはしばしば対立がみられた。

 元久2(1205)年、政子は、時政の後妻である牧の方が、京都守護職の平賀朝雅を将軍にしようと陰謀を企てているとし、実朝をみずからの元に保護した。これをきっかけに時政は失脚し、その後は出家して表舞台から去っている。嫌疑をかけられた平賀朝雅は、京都で殺害された。

 牧の方によるこのクーデター未遂事件も、実態が明らかでない。時政方が兵を動かした形跡はなく、政子による捏造の可能性が大きい。これ以後、北条義時・政子の姉弟が幕府の中心となった。有力者のこうした粛清が続き、建暦3(1213)年には、頼朝以来の幕臣であった和田義盛も追い込まれ、和田合戦で滅ぼされている。

 将軍となった実朝は、朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。ときの後鳥羽上皇も実朝を厚遇し、実朝は昇進を重ねた。しかし、こうした朝廷への接近は御家人たちの反感を買うこととなり、また北条氏とも対立していくこととなる。

 建保7(1219)年、鶴岡八幡宮の式典において実朝は、甥で頼家の次男の公暁に殺害された。この暗殺の真相も明らかにされていない。公暁の単独犯行説もある一方、北条氏が黒幕であったという意見も認められる。公暁の襲撃前に身を隠した北条義時は、ことの起こることを事前に知っていたと考えられる。となれば、政子にも伝わっていた可能性は大きいだろう。

 いずれにしろこの事件でもっとも利益を得たのは北条氏であり、これ以後、政子が実質的な「当主」の働きをすることとなった。実朝後継の将軍選びを仕切ったのは政子である。『吾妻鏡』では建保7(1219)年の実朝死去から嘉禄元(1225)年の政子死去まで、政子を「鎌倉殿」として扱っている。

 さらに政子が行ったのは、源氏一族の粛清であった。頼家の遺児である四男禅暁は、公暁に荷担したとして承久2(1220)年に北条氏の刺客によって京で殺害された。さらに阿野全成の四男である時元も、政子の妹の子であるにもかかわらず、殺害されている。

 貞応3(1224)年、義時が急死する。長男の北条泰時が後継者と考えられたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の擁立を画策し、有力御家人の三浦義村と連携しようと企てたとされる。政子は義村の邸を訪ねて、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問したところ、義村は泰時への忠誠を誓ったという。この後、伊賀氏は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。

 ところが、伊賀氏謀反については『吾妻鏡』には記載がなく、泰時も否定しており、これも政子がでっちあげた事件であると指摘されている。この事件にも謀反の痕跡はみられず、義時の死によるみずからの影響力低下を恐れた政子が捏造したものであろう。

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