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ユーザー、中国人、メディア、家族…苦境のたびに救いの手が現れる

ホームレスから国内最大Q&AサイトOKWave社長への軌跡

構成=國貞文隆
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ホームレスから国内最大Q&AサイトOKWave社長への軌跡の画像1オウケイウェイヴの兼元謙任社長

 ユーザーが無料で「質問」「回答」ができる日本最大のQ&Aサイト・OKWaveを運営するオウケイウェイヴ。1999年の会社創業から幾多の波乱を乗り越え、2006年には株式上場し、成長を遂げてきた。そんな同社の創業者であり、社長の兼元謙任氏は、一時はホームレスとして暮らしたことがある波瀾万丈の経歴を持つ人物だ。

 今回兼元氏に、

「ホームレスから、いかに上場企業社長まで上り詰めたのか?」
「Q&Aサイトというサービスを生み出すきっかけ」
「ベンチャー企業生き残りの秘訣」

について聞いた。

ーー創業前、兼元社長は一時ホームレス生活を送っていたそうですが、それまでどんな人生を送ってこられたのでしょうか?

兼元謙任社長(以下、兼元) 小学生の頃に遭ったいじめがひどくて、精神的に病んでいた時期が長かったと思います。以来、成人してからの苦労は、それに比べればあまりたいしたことではないと思って乗り越えてきました。それほど子供時代のいじめは残酷なもので、木刀で殴られたり、殺される一歩手前のことをされ、ずっと「殺される」という感覚が抜けなかったのです。

 しかし、その後、社会人になってからも、また精神的に大きな波がやって来ました。嫁さんから別れたいと告げられたり、一番信用していた仲間にお金を持ち逃げされたことがその要因です。特にお金を持ち逃げされた時は、最初は仲間が帰ってこないので「事故に遭ったのでは……」と心配していたくらいです。事態が発覚した時は、裏切られたショックが大きくて、思いっきりめげました。

 東京へ来たのは会社を始める2年前、名古屋から上京しました。しかし、東京で一番頼りにしていた経営者から「お前のことを買っていたわけじゃない。お前を取り巻いていた仲間をタダで使えるのが、お前のメリットだったのに」と突き放され、まさに自己全否定の言葉に相当落ち込みました。

 それから自暴自棄になって、当時丸の内のビル工事の現場など、都内を転々としていました。食事はコンビニやファーストフード店の残り物の弁当などをもらってしのいでいました。

ーーよく生き延びてこられましたね。

兼元 いや、実際はそれほど悲惨でもなく、お酒もあるし、食べ物も揃っている(笑)。食料にありつける場所も教えてもらっていましたし、賞味期限が切れていてもコンビニの弁当は食べられましたから、なんとか飢え死にせずに、生きることができました。ホームレスになったころは、所持金は1万円もありませんでした。ですが、寒い時は自動販売機の後ろにいくと暖かいとか、いろいろ教えてくれる人がいました。

立ち直らせた中国人の怒り

ーーそこからどうやって立ち直ったのですか?

兼元 ある中国の女性の方に会った時に、自分のつらい過去について話をしたら、相手が怒り始めたんです。「自分は中国の奥地から出てきて、体を張って生きているのに。こんなすごい国で、ちょっとつまずいたくらいで、こんなところで寝ていてバカじゃないの」と。その後、いつものホームレスの場所に戻って、食べ物を食べていたらおなかの調子が悪くなって、中身を見たらタバコの吸い殻が入っていた。その2つが重なって、もう一回何かしなきゃなと。中国人の彼女が言っていることは正しいと思いました。彼女とは今はもう会えないですけど、本当はお礼を言わなきゃいけない人です。

 その後、先ほどの頼りにしていた経営者の方に謝罪し、「もう一度仕事をください」と言って赦しをもらい、快く仕事を手配していただいたのです。

ーーそれで、ホームレス生活から抜け出せたのですか?

兼元 最初のお仕事をもらって、お金を頂いたので、カプセルホテルに泊まろうとしたのですが、そのお金を名古屋にいる自分のせいで苦労をかけている家族に送ろうと思い直しました。その後も仕事をしながら、約2年間ホームレス生活を続けていました。やりたいことが決まって、「もう1度やり直したい」と家族に報告しに行った時に、妻は送ったお金には手をつけず、そのまま残していてくれていました。妻は、その400万円を「創業資金に充ててくれ」と言ってくれたのです。

 その資金でサーバーを買ったりしましたが、あっという間になくなりましたね。

Q&Aサイトは、どのように生まれたのか?

ーー現在の主力事業であるQ&Aサイトは、どんな経緯で思いついたのですか?

兼元 ホームレスをしながら仕事を請け負っていた時に、ホームページの制作を依頼されたのですが、どうしてもわからないところがあり「どうやってホームページをつくったらいいのか?」といった趣旨の質問を、あるネット掲示板に書き込んだんです。そのとき良い答えをもらえず、逆にののしられてしまったんです。

 その感覚が子供の頃のいじめの感覚に似ていて、いつの間にか「その感覚を、なんとか取り払いたい」というのが、一番のモチベーションになっていました。「それさえ取り払われれば、いじめだっていろんな人が助けてくれたかもしれないのになあ」と思ったんです。親にも友だちにも先生にもいじめられていたことを話せなくて、悶々としている気持ちを、こうした匿名の掲示板があれば、相談に乗ってくれたり、質問に答えてくれる。「もしそんなものがあったら、さぞや自分も助かったのに」と思ったのが最初です。それをきっかけに創業し、Q&Aのサイトをつくったのですが、最初は全然反響がありませんでした。

 その後ちょっと変化があったのは、私が最初に書き込んだ例の掲示板に「おもしろいサイトがある」と書いてくれた人がいて、そこから来てくれた方が幾人かいました。また、シールをつくって渋谷の109ビルの前で配ったり、登録ユーザー数が400人になった時に自筆の手紙を書いて礼状を送ったりしていました。

 そうこうしているある時、ネット系の専門誌の取材を受け、特集で紹介してもらったことがきっかけで、大きな反響を呼んで、次第に世間に名前が知られるようになったのです。

ユーザーが取引先の開拓に協力

ーー資金繰りはどうでしたか?

兼元 最初の3年間は赤字でしたが、メンタリティとしては、儲けよりも「いかに人は助かるのか?」とか「どうやったらユーザーは喜んでくれるのか?」を考えていました。でも資金繰りは大変でした。

 ベンチャーキャピタルからは、「ボランティアでしょ」とまったく相手にされませんでしたが、そのうちサイトを見た人の紹介で、楽天さんやインプレスさんから出資の話を頂くようになりました。しかし、赤字が続いて、一時は出資者から四面楚歌になったこともあります。「社長を交代しろ」と言われ、しんどかったですね。

 そこで一念発起して、黒字化しようと思ったのです。そのとき助けてくれたのが、ユーザーの方々だったのです。大手企業に勤めるユーザーの方々がいて、困っているなら取引先を紹介してやるということで、一緒に提案してくれたのです。そこで企業と一緒になって事業を広げられるようになったのです。皆さんに助けられ、幸運でしたね。

ーーベンチャー企業は、生き残りが難しい世界です。生き残る秘訣とはなんでしょうか?

兼元 出身地の名古屋は、借金が嫌いな性質です。そんな名古屋商法的なものを叩き込まれながら育ってきました。それが、生き残ってきた1つの要因かもしれません。

 ベンチャーとして生き残るには、思い切って流れに任せてビジネスを変えていくのか、本当にとことんやり続けるしかありません。中途半端なスタンスを取ると、失敗してしまいます。

 こだわりなくビジネスを変えていくのか、こだわりを持つのか? こだわりを持つのはつらいことですが、いつかは「やっていてよかった」と思う日が来ると信じていました。そんな経験をしながら、今日に至っています。
(構成=國貞文隆)

國貞文隆

國貞文隆

1971年生まれ。学習院大学経済学部卒業後、東洋経済新報社記者を経て、コンデナスト・ジャパンへ。『GQ』の編集者としてビジネス・政治記事等を担当300人以上の経営者を取材した経験がある。。明治、大正、昭和の実業家や企業の歴史にも詳しい。主な著書は『慶應の人脈力』『やはり、肉好きな男は出世する ニッポンの社長生態学』『社長の勉強法』『カリスマ社長の大失敗』など。

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