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武田鏡村「本当はそうだったのか 歴史の真実」

なぜ織田信長はわずか4千の兵で、3万の今川義元を破ったのか?桶狭間の合戦の謎

文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長
なぜ織田信長はわずか4千の兵で、3万の今川義元を破ったのか?桶狭間の合戦の謎の画像1織田信長(「Wikipedia」より/Gryffindor)

 3万の兵力と4000の兵力が戦ったら、どちらが勝つか。これは考えるまでもないことである。今川義元と織田信長が戦った桶狭間の合戦は、その兵力差から当然ながら今川軍の勝ちということになる。

 だが結果は、信長の圧倒的な勝利である。そこで考えられたのは、劣勢の信長が勝ったのは、敵の不意を衝くために「迂回」して「奇襲」したのだ、と。信長は兵を、今川軍の前線を秘匿させながら大きく迂回して、いきなり今川義元の本陣を奇襲した――。

 この説を公然と唱え始めたのが、明治期の陸軍参謀本部である。劣勢をひっくり返すには、敵から身を隠し密かに行軍して、今川義元の本陣を衝く。これ以外には考えられない、と明治の軍人たちは真剣に考えたのである。

 この考え方は軍人たちに定着していき、やがて大国アメリカの軍事力を叩くには奇襲しかない、として立案され実行したのが真珠湾攻撃である。この奇襲は、結果としてアメリカ国民の戦意を高揚させ、日本がズルズルと敗退する原因になった。

勝機は、その一点集中

 では、桶狭間の合戦は、本当はどうであったのか。それは信長の側近で右筆(ゆうひつ/秘書)の太田牛一(ぎゅういち)が書いた『信長(しんちょう)公記』に記述されている。

 義元の出陣を知った信長は、清洲城を飛び出すと一直線で熱田神宮から自軍の砦(とりで)となる丹下砦、善照寺砦を経て中嶋砦に到達した。今川軍は信長方の砦を攻めるために、各地に分散している。もちろん前方にも軍勢が展開しているため、信長が兵を前進させようとすると、重臣たちはその無謀をたしなめた。

 そのとき密偵の梁田政綱から、義元が桶狭間山の後方の窪地で休息中という報告がもたらされた。中嶋砦からわずか2キロメートルの場所である。信長はすかさず手勢の2000をまとめると、海抜65メートルの桶狭間山を目指すよう指示した。そこに達するには今川軍の前線を突破しなければならない。しかも、そこは湿地で足場が悪いので「死地(しち)」をいわれている場所である。そのため重臣たちは、いたずらに死ぬだけだと必死になって押しとどめようとした。

 だが信長は「死地だからこそ、敵は油断している。真っ直ぐに一気に桶狭間山に登れば、勝機がある」といって聞かない。わずか2キロメートル先に敵の大将がいる。小兵力が大兵力に勝つには、大将の首一点に、その全勢力を向ける。勝機は、その一点集中しかない。これは小兵力が勝つ軍事学の要点である。さらに信長は、将兵を鼓舞する。

「わが眼前の敵は、朝からの砦攻めで疲れきっている。わが方は少数ながら十分な力がある。小軍なりとも決して大軍を恐れるな。運は天にあり。この戦(いくさ)に勝てば武士の面目が立ち、末代までの名誉となるぞ。ただただ励め」

 これに加えて、敵への攻め方も指示する。

「敵が仕掛けてきたら、ただちに引き、敵が引き上げたら押し返せ。もみ合いの中から敵のスキを衝いて、一気に追い崩せ。首は切り取らずに、捨て置きにせよ」

 敵の首を取ることは、論功行賞の査定となる。だが、それをしていては時間の無駄となる。前田利家などは、信長の命令に反して首を持ち帰ってきて手柄とした。すると信長は、「この戦いの手柄は首の数とは関係しない」と言い含めて、前線に送り返している。信長は常々、「備えず構えず、機をはかって応変する。この間合いこそ肝要(かんよう)なり」と固定された戦法ではなく、臨機応変こそが勝機につながると考えていた。この点にも信長の卓越した発想と行動がある。

戦は約2時間で終了

 信長軍は、「死地」で今川軍ともみ合いながら、桶狭間山の山麓に取りついた。中嶋砦から直線で1時間ほどである。このとき信長に幸運が訪れる。突然、豪雨が降りしきり、信長軍の行動を隠したのである。信長軍が山頂に達したとき、豪雨は追尾する今川軍に降りそそいでいた。その後背にいた義元本陣のあたり一帯は、すでに青空がのぞいている。信長は山頂に兵をまとめると、「熱田大明神(だいみょうじん)の助けぞ。すわ、かかれ!」と大音声をあげるやいなや、義元本陣めがけて突進した。

 一方、義元本陣では、昼の酒宴が豪雨のために中断されていた。やがて雷雨がやみ、空が晴れてきた。そのとき背後の桶狭間山から一団が本陣めがけて駆け下りてくる。その先頭は信長軍に追われる今川軍の先鋒であったが、彼らは「敵襲!」と叫ぶ間もなく、本陣になだれ込む。それを追いかける信長軍が突入。今川軍はあわてふためいて、崩れだした。

 武器はおろか、義元が乗る塗輿(ぬりごし)まで放り出して逃げ散る。旗本三百騎といわれる親衛隊が円陣をつくって義元を囲むが、それがかえって義元の位置を知らせることになった。浮足だつ今川方は、みるみる切り崩され、義元のまわりは、ついに50騎ばかり。スキをついた信長方の毛利新助が、義元を組み伏せて、首を打ち落とした。

「大将の首、討ち取ったり!」

 新助の勝ち名乗りに今川方の闘志はたちまち潰(つい)えて、クモの子を散らすように、われ先にと逃げ出したのである。

 この桶狭間での合戦は、およそ2時間で終わった。今川方で討ち取られた首は、およそ2000であった。信長は兵力を敵の大将に一点に集中させることで「小が大に勝つ」という、まさに戦術の要諦を実行したのである。
(文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)

武田鏡村

武田鏡村

日本歴史宗教研究所所長、作家。1947年新潟県生まれ。1969年新潟大学卒業。長年にわたり、在野の歴史家として、通説にとらわれない実証的な史実研究を続ける。教科書に書かれない「歴史の真実」に鋭く斬り込む著書が多数ある。浄土真宗の僧籍も持つ。主な著書に『決定版 親鸞』『藩主なるほど人物事典』『新時代の幕開けを演出した龍馬と十人の男たち』『図解 坂本龍馬の行動学』『幕末維新の謎がすべてわかる本』などがある。

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