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武田鏡村「本当はそうだったのか 歴史の真実」

“残虐”織田信長、実は優しいフェミニストだった!女性に優しく、貧しい民衆を保護

文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長

“残虐”織田信長、実は優しいフェミニストだった!女性に優しく、貧しい民衆を保護の画像1織田信長(「Wikipedia」より/Gryffindor)
 織田信長の性格は、残忍で非道であったといわれている。そのため信長嫌いの人も多い。比叡山を焼き払い3000人を殺害、伊勢長島で2万人を虐殺、越前では3万人という大殺戮――。これだけを見れば、信長は残虐で残忍だったということができる。

 ただ、その人数は、信長自身が京都や各地の前線にいた重臣ら宛の手紙に誇張して書いたもので、将兵たちの奮起を促し、大殺戮の噂を流して敵を脅えさせる心理的な意図がある。そのため、かなり割り引かなければならない。

 その一方で信長は、関ヶ原にいた貧しく家のない人々を保護したばかりか、降伏してきた者たちを寛容に扱い、家臣に取り立てている。

 信長の優しさは、特に女性に対して深いものがあった。

 信長が最初に結婚したのは、美濃の斎藤道三の娘、帰蝶(きちょう、お濃)である。政略結婚であるが、その生活は不明である。ただ、道三が死ぬと離別しているが、これは信長の意向というよりは、帰蝶の意志であったようだ。道三が亡くなると、帰蝶は道三の菩提を弔うために菩提寺に父の肖像を寄進している。その後、母親の実家となる明智一族のもとにいっている。

 ちなみに帰蝶と明智光秀とは従兄弟であることから、光秀が信長の家臣になる時、なんらかの口添えがあったのか。あるいは光秀が信長への謀反を決めたことに影響があったとの見方もある。ただし、これらは推測にすぎない。

 その後、帰蝶は京都で余生を過ごし、信長と光秀の死を間近に看取り、豊臣秀吉が天下を治めたのを見て没したようである。このように帰蝶が自由に生きたのも、信長の配慮があったからといえよう。

女性に優しかった信長

 信長は戦略がからまない限りにおいて、女性には優しく、残忍な性格であったということはできない。

 信長は何人かの女性と関係して子供どもをもうけている。中条という侍女との間には乙殿(おつどの)という男子をもうけ、原田(塙)直政の妹に信正を産ませている。

 信長が一番愛したのは、帰蝶と離別する前から関係があった吉野(きつの・吉乃)である。吉野は、土豪で商人の生駒家長の妹であった。生駒家には、蜂須賀小六や前野長康ら木曽川沿いの野武士たちが出入りしており、秀吉もそこで信長に認められた家臣になったようである。

 信長は美濃を攻める拠点として造った小牧山城に吉野を正室として迎えた。吉野は、信忠、信雄(のぶかつ)、五徳(ごとく・徳姫)の3人を立て続けに産んでいたが、五徳を産んでからは病床につくことが多くなった。信長は、医師をつけ、薬湯を取り寄せるなどの優しい心配りをしていたが、とうとう回復することはなかった

 吉野の享年は28歳。久庵桂昌大祥定尼と諡(おくりな)され、亡骸(なきがら)は生駒屋敷に近い久昌寺に葬られた。その寺の言い伝えによると、信長は小牧山城の望楼(ぼうろう)から吉野が葬られた久昌寺の方向を眺めては涙を流していたという。残忍酷薄といわれる信長ではあるが、吉野に限らず女性に対しては、常に優しかったのである。
 

戦国女性への誤解

 ここで、戦国時代の女性についての誤解を解いておこう。力と力の男社会で女性たちは、いつも虐げられたか弱い存在だと思われてきた。ところが、現代でもそうであるが、女性たちは実に強かに生きている。

 たとえ政略結婚であっても、結婚生活の中で自分の立場を保ち、子どもが生まれれば、その子を盛り立てることに命さえ惜しまない。これが戦国女性の姿であった。

 政略結婚した信長の妹のお市も、娘の五徳も、非人間的な扱いを受けたわけではない。2人とものちに不幸な運命に見舞われるが、お市は浅井長政との間に3人の女子をもうけ、五徳もまた徳川家康の長男の信康との間に2女を産んでいる。

 彼女たちの夫は、いずれも信長によって殺されているので、もちろん悲嘆を味わったのであるが、夫亡き後は信長に引き取られて、何不自由のない生活を過ごしている。しかも、お市などは信長亡き後には、自分から望むように柴田勝家に嫁いでいるのである。

 お市の娘では、秀吉と結ばれて秀頼を産んだ淀殿がいる。淀殿は秀頼と共に家康によって大坂城で自刃(じじん)に追い込まれているが、秀吉死後には豊臣家で絶大な権力を振るっている。一方、信康に嫁いだ五徳は夫の浮気や姑との対立を信長に訴えているから、気丈夫な女性であったといえよう。その結果、信長は家康に対して「2人は武田信玄と内通している」から殺害せよと命じ、家康はそれに従ったのであるから、五徳は事実上、この2人を殺したことになる。

 戦国の男たちを残虐だというなら、女性たちも決して負けてはいなかったのである。
(文=武田鏡村/作家、日本歴史宗教研究所所長)

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