権力者の饗宴』(文藝春秋)
ハザマといえば、トンネルやダム工事など土木に強い会社だった。1958(昭和33)年12月22日に行われた新東宮御所の造営をめぐる入札で、間組(当時)が1万円で落札した。「東宮御所の建設に携われるのは極めて名誉なこと」と、ワンマン社長で知られた神部満之助氏が赤字覚悟で1万円入札→落札を断行したのである。
建設省(現国土交通省)が示していた予定額は5000万円(貨幣価値が違うのでピンとこないかもしれないが、現在の国家予算は当時の90倍。45億円規模の工事だったと理解したらよい)。世間の批判を浴び、結局ハザマは辞退することに。大手建設7社の共同企業体が請け負った。旧間組の1万円入札は、必ず、低価格入札の事例のトップにくる、歴史的珍事といえよう。
安藤-ハザマの合併のシナリオを書いたのは、両社のメインバンク、みずほコーポレート銀行である。時計の針を少し巻き戻して説明しよう。
発端は、02年2月11日の「建国記念の日」のことだ。柳沢伯夫・金融担当相(当時)と森昭治・金融庁長官(同)は、西川善文・三井住友銀行頭取(同)、杉田力之・第一勧業銀行頭取(同)、山本惠朗・富士銀行頭取(同)を個別に呼んだ。それぞれの都市銀行が抱える”危ないゼネコン”の再編・淘汰を促すためだ。小泉純一郎・首相(同)の公約である不良債権の処理が遅々として進まないことに、小泉氏自身が苛立っていた。
バブル期の不動産投資で巨額の借入金を抱え経営が悪化していた”危ないゼネコン”は、三井住友がフジタと熊谷組、第一勧銀が佐藤工業とハザマ、富士は飛島建設だった。官邸の指示で5社の処理が決まり、フジタは会社分割で新フジタとACリアルエステート(不動産部門)に分けられた。新フジタは三井住友建設に合併するという苦肉の策が捻り出されたが、この通りにはならなかった。第一勧銀がメインバンクの佐藤工業は会社更生法適用を申請。富士は大成建設と飛島建設の提携を無理やり作り上げ、「大成と提携する」とのアナウンス効果で、飛島は経営破綻をとりあえず免れた。その後、飛島と三井住友系の熊谷組との統合を打ち出したが、やはり統合は実現しなかった。