(「東海興業 HP」より)
マンション建設の東海興業(東京・中央区)が4月2日、東京地裁に民事再生法の適用を申請した。民間信用調査会社の帝国データバンクによると負債総額は140億円。
東海興業は、これで2度倒産したことになる。1度目は1997年7月、会社更生法を申請した。このときの負債総額は5110億円。2回目が今回の民事再生法申請だ。負債額は大幅に減った。
バブル崩壊後、ゼネコン倒産の口火を切ったのが東海興業だった。事件がらみのゼネコンとして有名だったが、それについて触れる前に今回の倒産劇の経緯を述べておこう。
05年3月に更生手続きが終結した東海興業は、まずは順調な再スタートを切った。マンション建設の受注が好調だった07年8月期には売上高1072億3200万円を計上して、復活を印象づけた。だが、08年9月のリーマン・ショックで暗転した。世界的な金融危機の、そばづえを食い、融資がストップ。中小のデベロッパーがバタバタ倒産した。09年に章栄不動産(広島市)が民事再生法を申請したため、東海興業に63億円の不良債権が発生した。
リーマン・ショック後、マンション市場は冷え込んだ。年間15~16万戸あったマンションの供給戸数は8万戸前後に半減。マンション不況の直撃を受け、東海興業の11年8月期の売り上げは298億7100万円にまで落ち込んだ。
12年8月期には367億6300万円に回復したが、東日本大震災以後、資材や人件費が高騰したことで資金繰りが逼迫し、民事再生法に駆け込んだという。
信用調査会社によると「今年1月、89億円のシンジケートローン(協調融資)のロールオーバー(借り換え)が不調に終わり、大口決済資金の調達が困難になったのが、倒産の直接の引き金になった。背景には不適切な会計処理があったとの情報がある。債権者説明会で弁護士が『ミスリードになる可能性がある』として財務状況を公表しなかった」。
弁護士の発言は意味深(意味深長)である。2度目の経営破綻の原因究明は、これからといっていいだろう。
本題である1回目の倒産にからむ事件の話をしよう。
東海興業は1946年3月の設立。63年に東証2部に上場、67年に東証1部に指定替えとなった。マンション、オフィスビル、宅地造成、ゴルフ場開発などを手掛け、最盛期には2868億円の売り上げを上げていた。
しかし、バブル期に都市開発に軸足を移したことから、関連会社に行っていた1530億円の債務保証がバブル崩壊で不良債権化。97年7月4日、東海興業は5110億円の負債を抱えて会社更生法を申請したのである。
倒産から半年後の98年1月7日、東海興業の顧問と名乗る元暴力団組長が妻と心中(服毒自殺)した。東海興業の元副社長や元常務ら4人が会社更生法違反(詐欺更生)容疑で逮捕され、事件に発展した。
会社更生法の適用直前に、元組長は「いろいろお前たちのためにやってきた」などと過去に関与した株主総会対策や幹部の女性問題などのスキャンダル情報をちらつかせ、「世話になった人にけじめをつけなければいけない」と金を要求した。
元副社長らは、いったん断ったが「それならメーンバンクの北海道拓殖銀行に乗り込むぞ」と脅されため、拓銀への波及を恐れ支払いを承諾。5000万円を支払った。彼は拓銀の常務から東海興業の再建のために派遣された人物だった。元組長は東海興業から手切れ金ともいうべき5000万円を受け取った後、謎の服毒自殺を遂げた。
元組長が東海興業の顧問として入り込んだのは、お家騒動が発端だった。東海興業は明治海運の創業者で元鉄道大臣の内田信也氏が設立。46年12月、満州鴻池組の元常務の中西小一氏が事業を継承。中西氏が事業を拡大、東海興業を上場ゼネコンに育て上げた。中西氏の死後、未亡人と経営陣の間でトラブルが生じた。
中西氏は満州人脈である右翼の大御所、児玉誉士夫氏(故人)と関係があり、東海興業は児玉色の強いゼネコンといわれていた。未亡人には関東の右翼が応援についた。経営側は関西系の元暴力団組長を用心棒に招き、対抗した。
元組長は総会屋対策などのトラブル処理に深く関与し、幹部のスキャンダルのもみ消しに当たった。東海興業は弱みを握られてしまった元組長に頭が上がらなくなった。毎月200万円の顧問料を支払い、元組長の親族が経営する土建会社を下請けとして使い、優先的に仕事を回していた。持ちつ持たれつ。典型的な土建会社とヤクザの癒着である。
東海興業は特殊な例ではなかった。当時、第一勧業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)や野村證券など日本のトップ企業による総会屋への利益供与事件が次々と明らかになった。
大企業とアングラ勢力との闇の連鎖は完全に断ち切れたのだろうか。たしかに、癒着が表面化することは少なくなったが、深く沈澱しているだけにすぎない。
2度目の倒産が東海興業のドロドロした暗部を思い出させる。
(文=編集部)