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中国をつけ上がらせた親中派の財界人&経済人列伝【7】

ANA「アカ財界人と批判を浴びても日中のパイプ作りに奔走」

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post_848.jpg『中国で尊敬される日本人たち』
(中経出版)
 親中派だったり、中国寄りの政策提言を行ってきた日本の企業と人物を取り上げ、紹介していく本シリーズ。最終回となる本記事では、中国と日本の国交正常化以前から周囲の反対を押し切り日中貿易の振興に努め、結果的に日中間の国交正常化に尽力した、親中派経済人を列挙して紹介する。

コマツ、河合良成(コマツ中興の祖)

 1972年の日中国交正常化以前から、日中貿易の振興に努め、中国政府から信頼を得る。その歴史は56年、北京と上海で開催された日本商品見本市へ参加したことから始まる(これがコマツの中国における事業開始である)。64年、河合良成会長(当時)が訪中して周恩来首相と会っている。この当時、日本の経済界・政界は“竹のカーテン”がある中国とのビジネスなどまかりならぬという雰囲気だったが、河合は非常に型破りな人間で、周囲の反対を押し切って訪中した。この時にも周恩来首相は「井戸を掘ってくれた人の恩は忘れない」と言った。田中角栄首相にも同じことを言っているが、河合良成の方が先に言われているわけだ(コマツの社史にもそう書いてあるそうだ)。この時、ブルドーザーなど計1510台成約した。商売はきちんとしたわけだ。

全日本空輸の岡崎嘉平太・元社長

 中国は早くから航空路問題に着目していた。それはまだ国交が正常化されていない64年2月のことだった。当時、廖承志は岡崎嘉平太らLT貿易関係者(LT貿易については本シリーズ1回目で解説)に、日中航空機の相互乗り入れを提案した。その後、この問題はしばしば日中民間経済外交関係者の間で協議され、全日空社長として岡崎嘉平太らは日中航路の開設を熱心に提唱し、政府首脳と協議した。しかし、日本政府は、中国との間には外交関係がないことを理由にそれを拒否し、臨時便さえも認めようとしなかった。

 日中間に初めて飛行機が飛んだのは、72年8月16日、訪日中の上海歌劇団一行を東京から上海まで運ぶためだった。これは日本航空と全日空が、田中角栄首相訪中に備えて行った上海へのテスト飛行であった。同年9月9日、全日空のボーイング727―200型機が、KDDの衛星地球局などテレビ中継機材や日中国交正常化政治交渉の民間担当者、吉井喜実、田川誠一、松本俊一らを乗せて北京に向けて飛んだ。これが東京―北京間の初めてのフライトだった。そして9月25日~30日、田中首相が訪中した際には、総理特別機をはじめ日本航空と全日空が本格的な飛行を行った。

 72年9月、日中共同声明が出された時の首脳会談で、田中角栄首相と周恩来総理は、両国の国交が正常化すると人の往来が多くなることから、「航空協定を早期締結できるよう努力する」と約束したと言われている。

BusinessJournal編集部

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