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セゾン隆盛と崩壊を招いた“詩人経営者”故・堤清二の功罪と、戦後最大の金融事件

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リニューアル前の西武池袋本店。現在はセブン&アイ・ホールディングス傘下(「Wikipedia」より/ITA-ATU)
 セゾングループ創業者で、辻井喬のペンネームで作家・詩人としても活躍した堤清二氏が11月25日午前2時5分、肝不全のため死去した。86歳だった。後日、お別れの会が開かれる。西武百貨店社長を務めた義弟の水野誠一氏がツイッターで「密葬に行ってきた」とつぶやいたことが、堤氏の死がメディアに広がるきっかけになった。

 堤氏は「経営者」と「詩人・作家」という2つの世界を同時に生きるマルチ人間だった。昼は「堤清二」として経営に当たり、夜は「辻井喬」として詩・小説の創作に打ち込んだ。

 堤氏は西武グループの創始者で衆議院議長の故・堤康次郎氏の次男として生まれた。1964年、康次郎氏の死去に伴い、西武グループの流通部門を継承。70年に異母弟の義明氏が率いる西武鉄道グループから独立して西武流通グループ(のちのセゾングループ)を立ち上げた。

 80年代から90年代初頭にかけて、「生活総合産業」を旗印に西武百貨店、西友、パルコを中核とした流通グループを、金融、ホテル、不動産開発など100社以上を擁する企業グループに成長させた。しかし、金融機関からの借入金に頼った拡大路線がバブル崩壊で破綻。91年にセゾングループ代表を辞任し、同グループは解体に向かった。

 80年代、堤氏は花形経営者だった。店舗を都会的な洗練された消費の発信地とするイメージ戦略を展開。糸井重里氏の「おいしい生活」のコピーは流行語にもなった。高度成長後の成熟した時代を先取りした感性は、詩人・辻井喬のそれでもあった。

 しかし、詩人の感性を経営に持ち込んだことが墓穴を掘った。セゾンの全盛期にノンフィクション作家、立石泰則氏が著した『漂流する経営 堤清二とセゾングループ』(文藝春秋)に、こんな逸話が書かれている。

 兵庫県尼崎市につくられた「塚口プロジェクト」(つかしん西武)のコンセプトを決める会議のシーンだ。幹部が「新しいショッピングセンター」のコンセプトを説明すると、堤氏は「全然違う。俺が作りたいのは店なんかじゃない。街をつくるんだ。計画を白紙に戻せ」と怒りを爆発させた。堤氏は提出されるプランに不満を示すが、理由は言わない。なぜ問題があるのかまったく理解できない幹部社員に「街には飲み屋や交番や銭湯がなきゃおかしいだろ」と叱責する。ショッピングセンターをつくるものと思い込んでいた幹部社員には、「街づくり」というまったく初めて聞く企画の趣旨が理解できなかった。セゾングループの幹部社員たちは、詩人の感性から発せられる言葉の意味が最後までわからなかった。そしてバブル崩壊後、セゾングループがあっけなく解体した原因は、トップである堤氏が経営者と詩人・小説家の二足のわらじを履いていたことにあったと指摘する声もある。

●堤氏がその秘密を墓場まで持っていった、戦後最大の金融事件

 堤清二氏は企業人、経済人を引退後、辻井喬として精力的に創作活動を続けた。『父の肖像』(新潮社)など自伝的作品が多いが、ついに書かれなかったテーマがある。セゾングループの西武ピサが発火点になった「イトマン・住銀事件」である。同事件は、戦後最大の金融事件である。

 洗練されたフランス文化に憧れを持つ堤氏は、東京プリンスホテルの地階に高級美術品・宝飾品販売店「ピサ」をつくった。昭和天皇の子女である島津貴子さんを、ピサのデザインの指南役として招いたことで知られる。そのピサが、イトマン・住銀事件の舞台として登場する。

 89年11月、首都高速を走行中のイトマン社長、河村良彦氏に自動車電話がかかってきた。電話の主は黒川園子氏。豪腕のバンカーとして鳴り響いていた住友銀行頭取、磯田一郎氏の長女である。父親の寵愛を一身に受け育てられた黒川氏は、家庭に収まる良妻賢母のタイプではなかった。82年7月、ピサに美術品担当の嘱託社員として入社したが、セゾングループ代表の堤氏に磯田氏が頼み込んで入社が決まったのである。