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首切りで難を逃れようとする資生堂の無責任体制が露呈

資生堂、中国事業の失速で業績不振 ネット通販主導の社長は2年でクビと大混乱

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資生堂ユーザガイドもわかりづらい気が。
(「ワタシプラスHP」より)
 2012年4月21日、資生堂はネット通販サイト「ワタシプラス」を開始した。資生堂の製品2600アイテムをネットで買えるほか、動画を使って美容部員からカウンセリングを受けることもでき、化粧品のネット店舗の機能を備えている。

 ネット通販への進出はほかの業界では当たり前のことだが、資生堂にとっては不磨の大典に相当するビジネスモデルの大転換を意味した。満を持して勝負に出た末川久幸社長(当時53)を、名門企業の若きエースといって経済紙・誌は大いに持ち上げた。

 だが、末川社長の挑戦はあっけなく挫折した。3月31日付で社長を退任し、相談役に退くと共に、前田新造会長(66)が4月1日付で社長に復帰する。末川氏は11年4月、52歳の若さで社長に就いたが、わずか2年で退任という、異例の事態となった。

 末川氏は退任理由について「2月ごろから体調に不安を感じ、社長として今後、全力疾走できないと判断した」と説明したが、「四半期ごとに業績を下方修正せねばならず、それが精神的に重くのしかかっていた」と、業績不振が原因だったことを認めた。事実上の“解任”とする見方すらある。社長が「自分で考えて行動したくても体力的に続かない」(末川本人)なら、辞任するしかないだろう。

 辞任の背景には、海外事業の柱としてきた中国事業の失速がある。沖縄県・尖閣諸島の国有化で中国の反日感情に火がつき、資生堂製品は買い控えに遭った。現地では資生堂イコール日本というイメージが強かっただけに、その影響は大きかった。12年7~9月は前年同月比10%の減収、10~12月は同20%近い減収になった。このため13年1月末に主要拠点の1つ、鎌倉工場(神奈川県鎌倉市)の閉鎖など大規模なリストラを余儀なくされた。

 中国の販売の失速ばかりがクローズアップされているが、より深刻なのは国内の化粧品事業だ。売上高は6年連続で減少し、12年3月期は3538億円と6年間で1000億円近く目減りした。13年3月期も、依然として落ち込みに歯止めがかからない。

 資生堂が開示している国内化粧品販売会社の売上高によると、12年4月は前年同期月で26%減少した。12年で前年実績を上回ったのは9月と10月の2回だけ。ほかの月はマイナスだった。

 資生堂の販売チャンネルが競争力を失ったことを、数字が如実に示している。だから、ビジネスモデルの大転換に踏み切ったのだ。

 1923(大正12)年に構築した資生堂化粧品連鎖店(チェーンストア制度)は、資生堂の聖域である。今でいうボランタリー・チェーンだ。1915年に事業を受け継いだ創業者、福原有信氏の3男の信三氏は、経営の主軸を創業事業である医薬品から化粧品に切り替えた。化粧品を売るために全国にチェーンストアを広げていった。

 1927(昭和2)年に株式会社資生堂が設立され、信三氏が初代社長に就任した。ビューティコンサルタントの前身ともいえるミス・シセイドウの派遣や、チェーン店と化粧品を愛用する女性を会員とする「花椿会」を発足させたりした。資生堂のビジネスモデルは大正から昭和初期にかけて完成した。信三氏は“中興の祖”と呼ばれた。

BusinessJournal編集部

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