70本以上という膨大な数の映画を制作してきた角川春樹だが、そんな中でも日本の映画界のあり方を変えた作品には、どのようなものがあるのだろうか? 角川との共著『いつかギラギラする日 角川春樹の映画革命』(角川春樹事務所)があり、角川映画を知り尽くした映画評論家の清水節氏に、今見るべき5本を選んでもらった。
角川春樹さんが自身で監督、もしくはプロデュースした作品の中でも、「日本映画界に影響を与えた映画」を5本だけレビューせよというのは、至難の業(笑)。そこで今回は、批評的な尺度とは別の、「その後の日本映画」を形成した作品群をセレクトしてみました。
どうしても、この基準だと初期作品に偏りがちですが、そんな中でも76年に公開された『犬神家の一族』は映画界への影響力、面白さにおいて、頭ひとつ抜きんでた作品です。
『犬神家の一族』で角川春樹は、映画界に殴り込みをかける。「金田一さん、事件ですよ!」という、文庫本のCM展開も話題を呼んだ。
そもそも70年代半ばという時代、僕らのような映画少年たちの入口となっていたのは主にアメリカ映画で、邦画はまだまだ垢抜けないイメージが強かった。ひと昔前の日本映画の巨匠たちがかろうじて映画を撮っていたものの、大手映画会社は映画作りそのものより、配給・興行に主力を置き始めていた時代。観客はもちろん、多くの映画関係者が「日本映画の未来」に絶望感を抱かざるを得ない状況だったといっても過言ではありません。
そこに突如現れたのが、角川映画の第1作である『犬神家の一族』。出版社が映画界に殴り込みをかけるにあたり、この映画にはさまざまな画期的要素が込められています。
春樹さんは映画界にメディアミックス展開を持ち込んで成功させた立役者ですが、「少年マガジン」(講談社)で連載されていた横溝正史原作の『八つ墓村』のマンガ版の人気に着目し、横溝ブームを仕掛けて、映画『犬神家の一族』を企画・製作することになります。
洋画でも『エクソシスト』(73年)などがヒットし、当時、重要なキーワードとなっていたオカルト的な要素が濃厚。しかも、高度成長期後の大きな転換点となった、国鉄キャンペーンに端を発する「ディスカバー・ジャパン」の世相を受け、日本の土着的な要素を兼ね備えた物語に着目した点が秀逸です。
さらに、50~60年代に大映で評価の高かった、市川崑監督に白羽の矢を立てたことも大切なポイントですね。『東京オリンピック』(65年)以降はヒット作に恵まれず、70年代前半にはテレビに活動の場を移して「忘れられた巨匠」ともいわれていた市川崑は、この映画で若者たちに再発見され、岩井俊二や庵野秀明ら後のクリエイターに影響を与えます。
しかし、角川映画への風当たりは強かった。本を売るために映画界をかき回すような印象を持たれ、批判に晒されもしましたが、時代が求めるものを追求し、どんなイメージで売り出すかという戦略と戦術は、日本の大手映画会社に欠けていたものだったのです。
加えて映画界がテレビを敵視していた当時、原作本のテレビCMではありましたが、初めて映画宣伝のためにテレビCMを打ったのも『犬神家の一族』でした。
次に紹介する77年の『人間の証明』は映画のスポットをさらに徹底し、新聞中心だった映画宣伝を一変させます。「読んでから見るか、見てから読むか。」というキャッチコピーが有名ですが、俳優たちをホテルなどに缶詰めにし、時間の許す限りPRインタビューを行わせる、今も主流の宣伝スタイルは、この作品から始まったといわれています。
また、元東映の佐藤純彌監督、日活出身のカメラマンである姫田真佐久、松竹出身の脚本家・松山善三、配給は東映、興行は東宝=東映洋画系など、映画会社を横断するような形で製作されており、初の本格的な海外ロケをニューヨークで敢行するなど新しい映画作りの形を提示した作品でもありました。そうしたプロデュースや仕掛けが巧みで、ジョー山中が歌う映画の主題歌は50万枚を売り上げました。
「ジャパニメーション」の端緒?歴史に残るアニメ映画の怪作
以上の2本は必須で、正直ここからの3本はかなり悩みましたが、やはり薬師丸ひろ子という新人を発掘した78年の『野性の証明』を3本目に挙げたいと思います。
『人間の証明』に続き、監督を務めた佐藤純彌は、当時すでに『陸軍残虐物語』(63年)でデビューし、『新幹線大爆破』(75年)、『君よ憤怒の河を渉れ』(76年)などを手がけたベテラン監督。オーディション段階で、原作のイメージと異なる薬師丸ひろ子の起用に不満もあったそうですが、「現場での閃き、表情や仕草が天才的だ」と評価を改め、いち早く彼女の才能を見いだしていた春樹さんは、主演の高倉健ではなく「14歳の少女」を宣伝展開の軸に決めます。
新人を映画界が発掘する手法は、黄金期の映画会社には存在しましたが、その歴史は吉永小百合全盛期の60年代までさかのぼります。山口百恵の“百恵友和映画”など、オーディション番組出身の歌手を事務所が売り出すために映画出演させることはあったものの、映画界発の大型新人女優として、大規模なプロモーションが行われたのは久しぶりのことでした。
4本目としては、現在はアニメのイメージも強い“KADOKAWA”の契機となる、83年公開のアニメ映画『幻魔大戦』でしょう。
春樹さんは、東映動画と虫プロを経てフリーで活動していたりん・たろうを本作の監督に起用します。りん・たろうの最先端のセンスは、当時まだ単行本も出していなかったブレイク前の大友克洋に注目して、キャラクターデザインを一任します。
『幻魔大戦』は原作の一部も手がけていた石ノ森章太郎のマンガで知られていたので、その絵のまま映画化するのが普通の考え方ですが、春樹さんは著作権問題もクリアし、角川映画はまったく新しいイメージを打ち出してアニメ界に進出しました。
本作は東京の街並みなどの背景から衣装まで、リアリティあふれるタッチを追求しています。大友克洋は、自作を映画化した『AKIRA』(88年)でハリウッドからも評価され、りん監督が本作で協力を求めた、丸山正雄が率いるマッドハウスは、後に多くの才能を輩出します。つまり、『幻魔大戦』の重要性は角川映画が単にアニメ映画を製作しただけではなく、りん・たろう指揮下のリアリズムが、その後の「ジャパニメーション」の端緒になった点です。
アニメ映画市場自体は『宇宙戦艦ヤマト』(77年)で拡大しましたが、スピリチュアルへの傾倒という世相も先取りした『幻魔大戦』はアニメをよりポップなカルチャーに成長させ、次のステップへと導く役割を果たしたともいえるでしょう。
出版社がアニメに向かう動きのルーツとなり、翌84年に徳間書店は『風の谷のナウシカ』を製作、85年にスタジオジブリを設立しました。もともと「肉体性」を主張してきた春樹さんは、二次元メディアのアニメに思い入れが弱く、角川春樹映画史として語られることは比較的少ないかもしれませんが、歴彦さんが発展させる路線の下地となったといえます。
最後に紹介するのは、作品の質はともかく、日本映画界の製作手法において重要な作品。日本のバブル景気の只中の89年に製作が始まり、90年に公開された超大作『天と地と』です。
本作の企画立案の背景には、『影武者』(80年)のワールドプレミアで、東宝の社長が紹介してくれたにもかかわらず、春樹さんを無視したという巨匠・黒澤明への対抗心、疑問と反発があります。同じ「川中島の合戦」をモチーフに、製作費50億円という、当時も今も日本映画ではあり得ない金額を企画段階で見積もりました。
この映画で春樹さんは資金調達のために「製作委員会方式」を初めて制度化して、前売り券やテレビ放映権などを担保に48社から50億円を集めることに成功します。
もっとも、当時の製作委員会は春樹さんに投資して全権を委ね、各社が協力していくという力関係でした。つまり、各社がそれぞれのメリットを追求し、リスクヘッジを図る現在の製作委員会の有り様とは、大きく異なります。とはいえ、毀誉褒貶のある日本の映画製作システムは、この作品をきっかけに確立していったといえるのです。
(構成=伊藤綾/絵=河合寛)
【プロフィール】
清水節(しみず・たかし)
1962年、東京生まれ。映画評論家、クリエイティブディレクター。映画関連の企画・編集・執筆などを手がける。共著書に『スター・ウォーズ学』(新潮新書)など。WOWOW「ノンフィクションW 撮影監督ハリー三村のヒロシマ」企画・構成・取材で国際エミー賞を受賞。