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べビー用紙おむつと生理用ナプキンを日本に普及させた男…ユニ・チャーム創業者の壮絶経営

文=編集部
べビー用紙おむつと生理用ナプキンを日本に普及させた男…ユニ・チャーム創業者の壮絶経営の画像1「ユニ・チャーム HP」より

 ユニ・チャームの創業者、高原慶一朗氏は10月3日、老衰のため東京都内で死去した。87歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は長男で同社社長の豪久氏。

 高原氏は1931年3月、愛媛県川之江市(現四国中央市)で生まれた。父親は国光製紙という製紙会社の経営者。人格形成に大きな影響を与えたのは母親だった。小学生の時、「優等賞をもらったよ。三番だったよ!」と勇んで告げると、「一番じゃないとダメじゃないの」と叱った。イジメに遭って泣いて帰ると「『後(のち)にはみとれ』と言い返しなさい」と叱咤した。高原氏は、独立したときも、逆境に陥ったときも、「後にはみとれ」という言葉を思い出しては、自ら鼓舞した。

 高原氏は日本経済新聞に連載した『私の履歴書』(2010年3月)で、原点に母親の存在があると書いた。

 大阪市立大学では、のちに作家となる開高健氏と文学仲間だった。「仲間の自宅で紅茶を飲みながら文学論や人生論を戦わせたが、実態は開高の独壇場だった。こっちが青臭いことを言おうものなら、軽く論破された」と明かしている。独立するのが目標だった。大学卒業後、会社の全体が見える場所で製造、販売、マネジメントとさまざまの経験をするため、中堅紙業会社2社で働いた。

 1961年2月、29歳で郷里・川之江市に資本金300万円で防火建材の製造・販売会社、大成化工を設立した。「大きな成長と成功」への期待を社名に込めた。

 日本ではスーパーマーケットの登場はまだこれからという62年、日本生産性本部の中小企業新製品開発専門視察団に参加して渡米した高原氏は、初めて見た大型スーパーの光景に仰天した。広く明るい店内に、あらゆる商品が山積みされていた。

 高原氏が特に注目したのは、生理用ナプキンである。女性客が洗剤でも買うように、生理用ナプキンをカートに放り込んでいた。日本でも市場に登場していたが、女性たちが薬局で人目をはばかりながら買う“日陰の商品”だった。

 高原氏は「俺がやるべき事業はこれだ!」とひらめいた。米国からサンプルをしこたま買い込んで帰国した高原氏は、生理用品の開発に着手した。

 日本における生理用ナプキンの先駆者はアンネだ。アンネはいち早く全国の問屋を押さえ、薬局でナプキンの販売網を構築した。62年にアンネは水に流せる脱脂綿を用いたナプキン「パンネット」を発売。「若い活動的なあなたでも月に一度は経験するわずらわしさ。その日は“アンネの日”とお決めになったらいかがですか」という新聞の全面広告を出した。アンネはナプキンの代名詞となった。

「これからは日本でも、米国のようにスーパーなど量販店が流通の中心になる」――。そう確信した高原氏は、当時誕生したばかりのスーパーで売ることにした。これが功を奏し、スーパーの急成長によって、その流通ルートに乗った生理用品が売れるようになり、やがてアンネからトップの座を奪った。74年、ユニ・チャームを設立。76年に東証2部に上場した。

世界の巨人を上回る

 ユニ・チャームが、紙おむつを手掛けるようになったきっかけは、ある変わり者社員の訴えだった。当時、紙おむつ市場は、日用品メーカーの世界大手、米P&G(プロクター・アンド・ギャンブル)の商品「パンパース」がシェアの9割を握っていて、新規参入の余地はまったくないように見えた。ユニ・チャームの四国の開発部員が「ベビー用の紙おむつをやらせてください」と訴え続けた。訴えが認められないと、技術開発を勝手に始めた。

 そのことを耳にした高原氏は、四国に出向いて話を聞いた。開発部員は高原社長に、こう力説した。

「立体感のあるパンツ型のおむつで赤ちゃんのお尻にフィットするものをつくれば、絶対に先行商品に勝てるんです」

 これを聞いて高原社長は、「立体感のあるおむつか。面白い」と感心した。パンツ型の紙おむつなら、テープで装着するタイプより赤ちゃんは足を動かしやすい。漏れも減らせる。

「お前はバカか」――。高原氏は社外から本当にバカ呼ばわりされた。世界の巨人、P&Gが紙おむつ市場を独占している。子供が横綱に挑むようなもので勝ち目はない。社内も慎重論ばかりだった。だが、高原氏は周囲の反対を押し切ってゴーサインを出した。

 1981年に発売したパンツ型の紙おむつ「ムーニー」は爆発的な人気を呼び、2年後には「パンパース」を抜いて業界トップに立った。

 高原氏の消費市場の構造変化をとらえる嗅覚は鋭かった。生理用品、紙おむつ、老人用紙おむつ、ペット用品と、紙を軸に事業領域を広げ、アジアにも進出した。

 2001年、長男の豪久氏に社長の椅子を譲った。06年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由となったが、「後にはみとれ」の精神で、医者が驚くほど回復した。

 戦後、徒手空拳で立ち上がったベンチャー起業家が、また一人鬼籍に入った。
(文=編集部)

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