「選択と集中」の罠にはまったのは、シャープだけではない。
00年6月、松下電器産業(現パナソニック)の6代目社長に就任した中村邦夫のキャッチフレーズは「破壊と創造」だった。“経営の神様”松下幸之助が築き上げたビジネスモデルの破壊を目指した。
幸之助モデルは大量生産・大量消費を前提とするビジネスモデルである。しかし、バブルが崩壊した90年代に入り、戦後日本の成功モデルと称賛された幸之助の経営手法は機能不全に陥った。画期的な商品をいち早く投入した者が圧倒的なシェアを握り、市場を支配する独創性の時代になった。“マネシタ電器”では生き残れなくなった。
中村が下した号令はわかりやすい。「創業理念以外は、すべて破壊してよし」。中村の最初の破壊は、事業部制の解体である。事業部制は大量生産を最も効率的に実現できる最適な組織形態だったが、本社が各事業部から工場を取り上げた。
独立王国だったグループ会社を次々と子会社にした。幸之助がつくり上げた組織形態は、ことごとく破壊され、今や見る影もない。
さらに「松下は首を切らない」という神話も破壊した。昭和恐慌に見舞われた時、幸之助が「従業員は家族や。首を切れん」と言って従業員の雇用を守った逸話が日本の終身雇用制の原点である。これを否定し、1万3000人の人員を削減した。
中村が掲げた「創造」の成果は、プラズマ大画面テレビである。03年、プラズマテレビへの巨額投資を決断した。02年3月期の最終損益が4310億円の巨額赤字に転落した業績は、06年同期に1544億円の黒字へとV字回復を果たした。同年、大坪文雄を後継社長に据え、会長に退いたが発言力は絶大で、中村院政であった。中村改革の総仕上げとして、08年10月1日、松下電器産業はパナソニックに社名を変更した。社名から創業家の「松下」の名前が消えた。
だが、尼崎第一工場が稼動した05年には、技術者たちはプラズマが液晶に敗れることを確信していた。日立製作所などプラズマ陣営が続々と撤退するなか、パナソニックだけが「プラズマはわれわれの顔だ」と、こだわり続けた。社長の大坪が、最高実力者である中村の鶴の一声で決まったプラズマへの一点集中に異議を申し立てることはなかった。
リーマン・ショック後の10年に稼動した尼崎第三工場(プラズマパネル)に2100億円を投じた。だが、稼動からわずか1年半後に尼崎第三工場を停止した。プラズマテレビ路線の失敗である。パナソニックもまた、「選択と集中」の罠にはまった。
(文=編集部、文中敬称略)