フジテレビジョンの新社長に、遠藤龍之介専務が内定した。6月下旬の定時株主総会を経て正式に就任する。持ち株会社フジ・メディア・ホールディングス(FMH)社長には金光修専務が昇格する。両社の社長を兼務する宮内正喜氏は会長になる。
約30年にわたり「フジ・メディアのドン」として君臨してきた日枝久氏は、フジサンケイグループ代表を退任するが、フジテレビの取締役相談役として残る。“日枝院政”との辛口の評がある。
遠藤龍之介氏は、芥川賞作家・遠藤周作氏の長男。幼稚舎から慶應義塾に通い、慶應義塾大学文学部仏文科卒業。1981年、フジテレビジョン(現FMH)に入社。編成部長、広報部長、広報局長などを歴任し、2010年に常務、13年に専務に就任した。広報部長時代の05年には、ライブドアの堀江貴文社長(当時)によるニッポン放送株買い占め騒動が勃発。報道陣への対応もした。フジテレビの黄金期と低迷期の両方を経験した世代だ。
父親の遠藤周作氏(1923~96年)は、幼少時代を満州で過ごし、帰国後の12歳の時にカトリックの洗礼を受けた。慶應義塾大学文学部を卒業後、50年にフランスのリヨンに留学。帰国後の55年に発表した小説『白い人』が芥川賞を受賞し、小説家としてデビューした。
代表作は『沈黙』(新潮社、66年刊)。江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭の目を通して神と信仰の意義を描いた歴史小説である。
遠藤周作氏の生誕90周年にあたる2013年、当時常務だった遠藤龍之介氏は「週刊新潮」(新潮社)に、フジテレビへの就職決定時の忘れられない“父の言葉”を語っている。同誌は19年5月21日号に再掲載した。
就職が決まった報告に行くと、父はこんな話をしたという。
<“先週、母さんと二人で湘南に食事に行った。江ノ島の砂浜を歩いていたら、足を取られて疲れてしまったので、舗装されている国道を歩いた。要するにそういうことだ”と言うのです。
私は全く意味が分からず、“どういう意味ですか?”と尋ねると、“お前は本当に物分かりの悪い男だなあ。俺は作家で組織も守ってくれないから一人で歩かねばいけない。歩きにくい砂浜だったけどな。だけど砂浜は振り返って見ると、自分の足跡が見えるじゃないか。
お前はサラリーマンになる。色々なところで守ってもらえるし、歩きやすい舗装道路を行く。歩きやすいかも知れないが、10年、20年経って振り返ってみた時、自分の足跡は見えないんだぞ”と言われました。
せっかく就職が決まったのに、父親にそんなことを言われてすごくショックでした。>
遠藤龍之介氏は、近年、視聴率の低迷に苦しむフジテレビのトップに就く。復活を成し遂げ、同社の歴史に足跡を残すことができるのだろうか。
日本航空の植木義晴会長は剣戟映画の大スター・片岡千恵蔵の3男
2010年に経営破綻した日本航空(JAL)は、会社更生法の適用に伴う法人税の減免措置が19年3月期で終了。20年3月期からは通常の会社と同様の法人税率となる。
JAL再建で中心的役割を果たしたのが、パイロット出身の植木義晴氏。現在、JALの会長だ。植木氏は昭和期の剣戟映画の大スター、片岡千恵蔵(本名・植木正義、1903~1983年)の3男。片岡千恵蔵は阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スター」と呼ばれた。
植木氏は撮影所がある京都府太秦(うずまさ)で生まれた。男4人、女1人の5人兄弟の4番目。兄、兄、姉、植木氏、弟で、千恵蔵49歳の時の子どもだ。
阪東妻三郎は田村正和、市川右太衛門は北小路欣也、近衛十四郎は松方弘樹など、息子が映画俳優になっている。千恵蔵も子どもを俳優にしたかったようだ。しかし、母親の君枝さんが「映画は見るもの。出るものではない」と、子どもたちが映画に出ることを禁止した。
植木氏はパイロットに憧れた。慶応義塾大学法学部を中退して航空大学校に入学。1975年に卒業し、操縦士として日本航空に入社。94年に機長となり、以後、17年間機長として勤務した。
10年1月19日、日本航空(JAL)は会社更生法の適用を申請して経営が破綻した。“ナショナル・フラッグキャリア”という温室の中にいて外部の冷気に触れることなく、ヌクヌクと育ってきた経営幹部や社員には倒産したという事実がまったくわかっていなかった。
法的整理になるとは、一体、どういうことなのか。植木氏は知り合いの弁護士に尋ねた。「お前の会社はつぶれたよ。公共機関で航空部門の雄だから日本国が再建を手伝ってくれるということだ」と言われた。植木氏はそれほど経営知識に疎かった。
民主党政権の要請で、京セラの創業者である稲盛和夫氏がJALの会長に就いた。百戦錬磨の経営者である稲盛氏はJALの致命的な欠陥をすぐに見抜いた。就任早々、「日航は八百屋も経営できない」と批判し、誇りだけで生きていた多くのJAL社員を憤慨させた。JALには利益について責任を持つ人が誰もいなかった。だから「八百屋も経営できない」と稲盛氏に看破された。稲盛氏は実力主義の人事を導入した。
経営陣は一掃された。植木氏は10年2月、執行役員運航本部長として経営陣の一角に加わった。65歳まで飛び続けるつもりでパイロットに未練があったが、はからずも、社長としてJALの操縦桿を握ることになる布石が、この時に打たれた。
稲盛氏は強いリーダーシップが必要だと考えた。JALに長らく根づいているセクショナリズムを払拭するには、強いリーダーを育てなければならない。
稲盛氏は12年1月、植木氏を社長に昇格させる人事を発表した。植木氏の社長抜擢は、まさにサプライズ人事だった。植木氏は社長の登竜門といわれた経営企画や営業、労務の経験がまったくないパイロット出身だったからだ。
植木氏の抜擢は成功した。12年9月、東証1部に再上場。18年3月、社長を整備部門出身の赤坂祐二氏に譲り、植木氏は会長に就いた。
この間、売り上げ規模でANAホールディングスに水を開けられた。ANAに、国を代表する航空会社であるナショナル・フラッグキャリアの座を奪われた。再上場後の13年3月期から19年同期までの7年間に稼いだ純利益の合計は1兆円を超える。余剰利益をどう成長につなげるかが課題である。
稲盛氏がもっとも懸念したのは“慢心”である。業績が回復したことを、さも自分たちの力で成し遂げたと思い上がることだ。
「日航はつぶれた会社です。みなさんがおかしかったから、つぶれたのです」。そんな稲盛氏の警句を噛みしめる必要がありそうだ。
(文=編集部)