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江川紹子の「事件ウオッチ」第25回

今も心は信者のままーー【オウム高橋被告裁判】が露呈した、カルト問題の根深さと罪深さ

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事件から20年経っても、高橋被告はまともな謝罪の言葉を口にせず、いまだ強いマインドコントロール下にあることを伺わせた(写真は事件直後の教団施設外観)。

 一連のオウム真理教事件の最後の裁判となる、高橋克也被告の裁判は、検察側が無期懲役を求刑し、弁護側が無罪を主張して、審理を終えた。判決は、4月30日に言い渡される。被告人質問などを通じて印象的だったのは、彼が入信する前の、冴えない、でもありがちな人生と、今も続くオウムによる心の支配の強固さだった。

“うまくいかない人生”からの脱却を求めて

 高橋被告は、オウムの中で諜報省(CHS)と呼ばれる部署に属し、井上嘉浩死刑囚の部下だった。罪に問われているのは、猛毒のVXを使った殺人・同未遂事件2件、目黒公証役場事務長だった假谷清志さんを拉致して死なせた事件、地下鉄サリン事件、都庁爆弾事件の5件だ。

 彼は、兄一人と両親の4人家族で育った。将来の夢は特になく、中学を卒業すると工業高等専門学校へ進学。高専を選んだのは、「自分の成績でも行けるところ」であり、家族の勧めもあったから。兄は大学に進学したので、自分も……と思ったこともあったが、「お前は次男だから」と言われて諦めた。

 高専時代、テレビで発明品の特許権出願手続などを行う弁理士の仕事を知り、興味を持った。だが、当時の弁理士国家試験は、大学を卒業していない者には予備試験が課されていることを知り、「大変そうだな」と、すんなり諦めた。

 卒業後、家に近い、というだけで選んだ会社には、なんとなく馴染めず、1年で辞めた。再就職した会社では、一生懸命働いたつもりだったのに、丁寧な仕事を心がけると「仕事が遅い!」「君の給料だと割に合わない」と叱責された。残業に次ぐ残業で仕事をこなしたが、燃え尽きて退職。

 「真剣に選ばなかった最初の会社も、やる気を出して選んだ会社も、どっちも誤った選択だった」と落ち込んだ。当時の気持ちを、彼は「自分自身の根底の生き方に迷いが生じた」と述べている。

 ここまでは、さほど珍しくないストーリーである。

 うまくいかない人生。それをなんとかしたいと思った彼は、「生き方を求めて」本を読んだ。書店の精神世界のコーナーに足が向いたようである。超能力にも興味が芽生えた。特別な力を獲得することで、パッとしない人生を大きく変えたかったのだろう。修行で超能力がつくのを期待して阿含宗に入ったが、何も得られず失望。超能力をウリにした麻原彰晃死刑囚の著書をきっかけに、当時「オウム神仙の会」と名乗っていたグループに接近した。悟り・解脱に興味を持つようになり、“出家”したのが1987年7月。当時29歳。親は反対しなかった。

 古参の信者だが、教団の中でも、存在感は薄く、昇格も遅い。そういう意味では、パッとしない人生は続いていたが、それでも信者でいれば、真理を求める「聖者」でいられる。オウムは普通の人生を送っている人々を「凡夫」、オウムに批判的な者や他の宗教を信じている者を「外道」とさげすみ、信者たちの優越感を刺激していた。

 教団内の仕事としては、高橋被告は車の運転をすることが多かった。違法な活動に関与するのは、井上の部下となってから。企業や研究所でレーザーに関する書類やボツリヌス菌の菌株を盗み出す作業に加わった。殺人事件には、最初は見張り役として、その後は実行役の補助となり、さらに拉致の実行役へ。常に受け身で指示されるままに動いているうちに、犯罪への関与の程度はだんだん上がっていった。

 都庁爆弾事件に関わった後は、ひたすら逃亡する生活に入る。最初は、所沢市内の6畳一間のアパートに、信者5人で隠れ住んだ。その1人が働いて生活を支えた。その後、高橋被告は菊地直子被告と2人の逃亡となる。偽名を使って仕事を見つけた。途中、菊地被告と別れ、1人で潜伏生活を続ける。