合計で1400億円に達する東京都民の血税と11年あまりの歳月を無為に費やした無謀な銀行経営から、東京都が事実上の撤退をすることになった。東京都が8割出資する新銀行東京が先週末(6月12日金曜日)、東京都民銀行と八千代銀行を傘下に置く東京TYフィナンシャルグループの傘下に入ることで正式な合意に達した。
新銀行東京は、民間銀行に対する批判の声をあげて都民票の取り込みを図った石原慎太郎元都知事が、1期目に導入した懲罰的な外形標準課税に続いて、2期目の目玉として設立した。威勢のよい石原節で、「雨の日に傘を取り上げるような銀行は信用できない」と言い、都民の税金から1000億円を出資、2004年に設立へ漕ぎ着けた経緯がある。それゆえ、「石原銀行」とか「慎太郎バンク」などと呼ばれた銀行である。
だが、歯切れの良い弁舌とは対照的に、新銀行東京の経営は混迷を極めた。開業から3年で行き詰まり、都は最初に出資した1000億円の大半を失っただけでなく、さらに400億円の追加出資をする失策を犯した。
今回、この出資は新銀行東京株から東京TY株に姿を変える。都民は引き続き血税の塩漬けを迫られ、間接的とはいえ東京TYの経営リスクを背負うことになる。失敗の責任をそっくり旧経営陣に押し付けて、まんまと逃げ切った石原氏の高笑いが聞こえてきそうだ。
新銀行東京は、都が全株式を取得したBNPパリバ信託銀行を母体に04年4月に設立、1年後に業務を開始した。この決断をしたのが石原氏だ。同氏は当時、中小企業からの貸し剥がしを繰り返していた銀行を厳しく批判。00年4月制定の都条例で、都内に本店か支店を置く資金量5兆円以上の金融機関を狙い撃ちにした外形標準課税(通称「銀行税」)の導入に踏み切った。
反発した銀行が条例の無効を主張して提訴し、02年の1審で「条例は地方税法72条の19に違反」、03年1月の2審では課税の「均衡要件」に反するとして条例は無効とされ、都はいずれも敗訴。安定的な税源の確保と税収の拡大という本来の目的を実現できなかった。
しかし、バブル経済の崩壊後、政府から公的資金を注入される破格の優遇措置を受けながら貸し剥がしを続けていた銀行への不満を強めていた有権者の多くは、石原氏の闘う姿勢に拍手喝采を送った。そんな最中、03年春の都知事選で石原氏がぶちあげたのが、石原バンク構想だった。元知事は、懲りずに2匹目のドジョウを狙ったといえる。
だが、所詮は「武士の商法」だったのだろう。新銀行の開業時、同行を取り巻く経営環境は大きく変わっていた。不良債権処理に大筋のメドをつけたメガバンク各行が優良中小企業の囲い込みを再開していたのである。まともな融資先はほとんど残っていなかった。
2つの戦略ミス
しかも、新銀行は2つの決定的な戦略ミスを犯した。第1は、「スコアリング融資」と呼ばれていた安易な融資審査だ。厳格な対面調査をせず、システムに表面的な財務データを入力してパスすれば、“迅速に”無担保・無保証融資をするというものである。新銀行は、開業から3年で不良債権処理に約400億円の貸倒引当金を計上することを余儀なくされ、あっという間に経営危機に陥った。
新銀行の放漫経営は、おカネをだまし取ろうとする“詐欺師”たちの餌食になったほか、結果的に都議会選挙を闘った与党議員や知事の子息らの国政選挙を支援することになったという。
第2は、新銀行の経営規模にそぐわない巨額のシステム投資だ。新銀行は3年間に270億円を超える虎の子の資金を浪費した。35億円ものキャンセル料も取られている。後に、調査に関わった関係者は「大株主のIT企業が新銀行を食い物にした」と怒りを隠さなかった。
責任逃れで広がった損失
設立の理念である、真っ当な中小企業に雨の日に傘を貸して経営を後押しするための融資に回った資金は、雀の涙ほどだった。業績も初年度(06年3月期)が209億円の最終赤字、2年目(07年3月期)が547億円の最終赤字、3年目(08年3月期)が167億円の最終赤字と惨憺たる状況が続いた。
本来ならば、遅くともこの08年3月期決算が判明した段階で、新銀行東京を破綻処理して損失を確定したうえで、石原氏と都議会は自らの監督責任や政治的責任をはっきりとさせて、けじめをつけるべきだった。
ところが石原氏と都議会は、銀行経営の失敗を認めようとしなかった。代わりに1016億円の減資をして、当初の出資を帳消しにするという同行の再建計画にお墨付きを与えたうえ、新たに400億円の出資をしたのである。その一方で、大株主として、また監督者としての責任には知らん顔を決め込んで、当時の経営陣に全責任を押し付けた。そして、失敗隠しに使われた400億円を、都は新銀行東京株として保有し続けてきた。今回、東京TYに株式交換されるため、同社の経営が血税の保全の鍵を握ることになるのである。
配当もしていなかった新銀行東京株を保有するよりは、同株を早期に売却して有意義な政策に投入すべきだったが、石原都政を継承した猪瀬直樹前知事の時代には、東京都職員たちに遠慮があり、同株の処分話を持ち出せない時期が続いたと聞く。
舛添要一現知事には、そのような遠慮はないはずだが、東京TY側に資本力の問題などがあったのだろう。都は、新銀行東京株を東京TYに売却して資金を回収することができなかった。代わりに、東京TY株を受け取り、大株主として同グループの経営を下支えしていく責務を背負い込んでしまったのである。
政治家としての功罪
大学在学中に芥川賞を受賞し、売れっ子作家として世に出た石原氏は、1968年に参議院全国区で史上初めて300万票という大量の票を得てトップ当選を果たすと、環境庁長官、運輸大臣を歴任し、多くの政治的業績を残してきた。東京都知事としても圧倒的な人気を誇り、4選を果たしただけでなく、全国の都道府県の先頭を切って本格的な複式簿記を使ったガラス張りの会計制度を導入するなどの業績も残している。
先月5月8日、石原氏は春の叙勲の大綬章親授式で、最高位の旭日大綬章を受章した。そして式後、受章者を代表して「これからわれわれ一同、それぞれの分野でお国のために力を発揮し、精進いたします」とあいさつした。政界を引退したとはいえ、人生の絶頂を迎えた格好だ。
しかし、今回取り上げた新銀行東京問題にしろ、銀行に対する外形標準課税問題にしろ、経済政策に関しては理念倒れで乱暴なものが多かった感が否めない。
持ち前の威勢のいい発言に誰も換言できなくなり、結果的に責任をとらずに済ませてしまったことは、石原氏に対する歴史的な評価を大きく下げる汚点となるのではないだろうか。あれだけ血税を無駄にしたのだから、せめて、在任中に知事報酬の自主的な返還ぐらいはしておくべきだったかもしれない。
(文=町田徹/経済ジャーナリスト)