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浮世博史「日本人が知らなかった、ほんとうの日本史」

本能寺の変の黒幕は天皇?「天皇は織田信長の傀儡」は間違い!戦国時代も和平に尽力

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正親町天皇像(「Wikipedia」より/ブレイズマン)
 戦国時代の天皇には、有名な人物が2人います。

 1人は、フランシスコ・ザビエルが京都を訪れた際の天皇である、後奈良天皇です。清貧、誠実の帝として知られています。

 もう1人が、正親町(おおぎまち)天皇です。正親町天皇は1557年に即位しますが、当時、朝廷の財政は苦しく、3年間も即位式を挙行できませんでした。そこに手を差し伸べたのが、中国地方の戦国大名・毛利元就です。毛利家からの献金により、朝廷の財政は一息つくことができました。正親町天皇は、

「毛利家は、皇室の親戚と同じ」

 と感じ、毛利家には従五位という位階を授け、天皇と政府の象徴であった菊と桐の御紋の使用を許可したほどです。

 正親町天皇は、さまざまな人から助けてもらえる人柄だったのか、また次の援助者が現れます。それが、大坂(おおざか:現在の大阪)の石山本願寺です。本願寺の法主である顕如も、朝廷に多額の献金を行いました。正親町天皇は、再び

「本願寺は、皇室の親戚と同じ」

 と感じ、本願寺に門跡という最高の寺格を示す称号を与えています。

 そして、第三の援助者が登場します。それが、織田信長です。

 信長が京都を訪れたのは、「正親町天皇を守衛奉る」ことが名目でした。信長は朝廷の財政を一気に回復させ、天皇の権威を回復させていきます。

 信長の攻撃的な外交に対して、正親町天皇は仲介者や調停者として振る舞います。実際、正親町天皇は信長と敵対勢力との和議の仲介を積極的に行いました。かつては「天皇は飾りにすぎず、信長の傀儡だった」と説明されていましたが、当時の天皇や朝廷の力を過小評価してはいけないような気がします。

 1570年の「姉川の戦い」や、73年の「足利義昭の追放」に関しても、正親町天皇は勅命を発して和議を行っており、70年から80年にかけて行われた「石山合戦」も停止させようと尽力しました。

 信長は、石山合戦にあたり、四天王寺の近辺にも「四天王寺砦」を築いて戦いました。周辺は激戦区となり、76年に四天王寺の伽藍は焼失してしまいます。これを聞いた正親町天皇は、

「聖徳太子が建立した国家安泰祈願の寺院の焼失は、戦乱を長引かせる原因になる」

 と深く嘆き、全国で募金を集め、四天王寺を再建するように命じる綸旨(りんじ)を発しました。これを受けて、信長も78年に四天王寺境内での狼藉を禁じる命令を出し、四天王寺に60石を献上しています。これらは、いずれも四天王寺に現存する史料で確認することができます。