本能寺の変の黒幕は天皇?「天皇は織田信長の傀儡」は間違い!戦国時代も和平に尽力
1人は、フランシスコ・ザビエルが京都を訪れた際の天皇である、後奈良天皇です。清貧、誠実の帝として知られています。
もう1人が、正親町(おおぎまち)天皇です。正親町天皇は1557年に即位しますが、当時、朝廷の財政は苦しく、3年間も即位式を挙行できませんでした。そこに手を差し伸べたのが、中国地方の戦国大名・毛利元就です。毛利家からの献金により、朝廷の財政は一息つくことができました。正親町天皇は、
「毛利家は、皇室の親戚と同じ」
と感じ、毛利家には従五位という位階を授け、天皇と政府の象徴であった菊と桐の御紋の使用を許可したほどです。
正親町天皇は、さまざまな人から助けてもらえる人柄だったのか、また次の援助者が現れます。それが、大坂(おおざか:現在の大阪)の石山本願寺です。本願寺の法主である顕如も、朝廷に多額の献金を行いました。正親町天皇は、再び
「本願寺は、皇室の親戚と同じ」
と感じ、本願寺に門跡という最高の寺格を示す称号を与えています。
そして、第三の援助者が登場します。それが、織田信長です。
信長が京都を訪れたのは、「正親町天皇を守衛奉る」ことが名目でした。信長は朝廷の財政を一気に回復させ、天皇の権威を回復させていきます。
信長の攻撃的な外交に対して、正親町天皇は仲介者や調停者として振る舞います。実際、正親町天皇は信長と敵対勢力との和議の仲介を積極的に行いました。かつては「天皇は飾りにすぎず、信長の傀儡だった」と説明されていましたが、当時の天皇や朝廷の力を過小評価してはいけないような気がします。
1570年の「姉川の戦い」や、73年の「足利義昭の追放」に関しても、正親町天皇は勅命を発して和議を行っており、70年から80年にかけて行われた「石山合戦」も停止させようと尽力しました。
信長は、石山合戦にあたり、四天王寺の近辺にも「四天王寺砦」を築いて戦いました。周辺は激戦区となり、76年に四天王寺の伽藍は焼失してしまいます。これを聞いた正親町天皇は、
「聖徳太子が建立した国家安泰祈願の寺院の焼失は、戦乱を長引かせる原因になる」
と深く嘆き、全国で募金を集め、四天王寺を再建するように命じる綸旨(りんじ)を発しました。これを受けて、信長も78年に四天王寺境内での狼藉を禁じる命令を出し、四天王寺に60石を献上しています。これらは、いずれも四天王寺に現存する史料で確認することができます。
「本能寺の変」の黒幕は、正親町天皇だった?
さて、信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」は、日本史上最大の謎のひとつといわれていますが、実は「正親町天皇が黒幕だった」という説があります。信長は77年に「中国攻め」で毛利家を攻めていることから、正親町天皇の心理としては、以下のようなものが考えられます。
「信長は、朝廷に資金援助してくれた毛利家を倒そうとしている」「さらに、朝廷が苦しい時に助けてくれた本願寺を倒そうとした」「毛利家や本願寺と信長の和議を進めたい」
信長にすれば、毛利家や本願寺を攻めるにあたって、それらが支援した天皇の存在は厄介だったのかもしれません。
「本願寺は攻められ、毛利も攻撃されている」「(信長は正親町天皇に譲位を要求していたといわれるため)天皇の位も、息子の誠仁親王に譲らされるのではないか」
こうした事情から、「正親町天皇が、本能寺の変を起こさせたのではないか」というのが「正親町天皇黒幕説」の背景です。
しかし、正親町天皇は毛利家にも本願寺にも世話になりましたが、最大の支援者は信長です。正親町天皇を信長討伐の黒幕とするのは、少し飛躍しすぎではないかと思います。
前述のように、正親町天皇は聖徳太子が国家安泰を祈願して建立した四天王寺の再建のために、わざわざ綸旨を発しているぐらいです。聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の精神を旨としていたのではないでしょうか。
正親町天皇は、群雄割拠の戦国時代にあって「みんな仲良く」と訴え続け、苦悩していた天皇のような気がします。
(文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭)