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銀行に翻弄された大手証券会社の平成史【前編】

大和証券、日本郵政と提携発表!山一破綻が加速させた、証券会社と銀行の合従連衡の結末

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創業は1902(明治35)年にまでさかのぼる大和証券

【後編】「日興證券が裏切り、三菱が怒った…三井住友は大和証券を切り捨て、日興証券と提携した」はこちら

「平成」は証券業界の黒歴史

 2019年5月16日の日本経済新聞は、「大和、野村の『お株』奪う」と題して、大和証券グループ本社が日本郵政グループと投資信託などの資産形成分野で協業を検討すると報じた。

 曰く。「2005年に投信販売を始めた日本郵政は野村ホールディングスと二人三脚で投信残高を積み上げてきた。野村と郵政の経営陣の間にすきま風が吹くなか、大和が『お株』を奪った格好」と、大和証券グループ本社の戦巧者ぶりを讃えつつも、「野村にはない大和の強みは何かを強く問われることになりそうだ」と結んでいる。

 しかし、実は大和証券グループ本社もかつて、金融機関の提携で煮え湯を飲まされた過去を持っている。金融機関の提携で翻弄されたのは、大和証券グループ本社ひとりだけではない。平成という時代は、証券業界が金融機関の提携(というより銀行)に翻弄されたという意味で、いわば黒歴史なのである。

 元号が昭和から平成に変わった1989年。日本経済は空前のバブル経済に沸いていた。しかし、1990年代前半のバブル経済崩壊で一転して低成長を余儀なくされ、金融機関の多くは不良債権に悩まされることになった。

 戦後、日本の証券業界は「四大証券」と呼ばれた野村證券(現・野村ホールディングス)、山一證券、大和証券(現・大和証券グループ本社)、日興證券(現・SMBC日興証券)がリードしていたが、1997年に「四大証券」の一角である山一證券が破綻してしまう。

「四大証券」の一角、山一證券の破綻

 1997年は、山一證券のみならず、戦後日本で初めて生命保険会社(日産生命保険)、都市銀行(北海道拓殖銀行)、証券会社(三洋証券、山一證券)が破綻し、「平成金融危機」「平成金融恐慌」と呼ばれた。

 バブル経済の「財テク」ブームの波に乗って、ホールセール(法人、大口取引)に強い山一證券は、多くの企業から資産運用を任され、1986年には全上場会社のなかで9位の収益を上げるまでに躍進する。しかし、その資産運用には大きな副作用があった。山一證券は資産運用を引き受けるにあたって高い利回りを保証していたので、その利回りが達成できないと、山一證券がその損失を補填することになっていたのだ。

 こうした証券会社の損失補填は山一證券に限ったことではなかったので、事態を重く見た大蔵省(現・財務省、金融庁)は、1989年12月、証券会社の「損失補填はまかりならん」との通達を出した。大口取引先の企業と大蔵省通達との間の板挟みになり、困った証券会社は、顧客企業の損失を補填しつつ、その損失をペーパーカンパニーや海外子会社に付け替えて簿外処理すること(いわゆる「飛ばし」)でごまかした。ところが、1991年6月に、大手証券会社の損失補填が発覚する。その結果として、野村證券、日興證券は社長が引責辞任して膿を出し、損失額を明らかにして時間を掛けて穴埋めしていった。

 しかし、山一證券ではそうした自浄作用が働かなかった。

 当時はまだバブル経済が崩壊したかどうかという局面であり、本格的な低成長には入っていなかった。そこで、山一證券は社長以下、経営陣が居座り続け、「株価はいつか上がる」と判断。損切り(損失覚悟で値が下がった株式を売却)せずに放置した結果、株価暴落で莫大な損失を抱えてしまう。その簿外損失は2468億円にものぼったという。

 1997年11月17日、北海道拓殖銀行が破綻を余儀なくされると、山一證券は隠し続けていた簿外債務の存在を大蔵省証券局に報告。延命を図ったが、大蔵省はかばいきれないと見て、山一證券に自主廃業を通告したのである。

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