大和証券、日本郵政と提携発表!山一破綻が加速させた、証券会社と銀行の合従連衡の結末
実は2度目だった山一證券の経営危機
実は山一證券の経営危機は、この時が初めてではない。
1960年代中盤の証券不況で、山一證券の経営状態が急激に悪化。銀行が中心となって秘かに救済策を取りまとめている最中、1965年5月22日に西日本新聞が「山一證券危機乗り切りへ」とスクープして経営危機が発覚、山一證券の店舗では取り付け騒ぎが起きて騒然となった。
大蔵大臣・田中角栄(のちの総理大臣)は、日銀氷川寮に日銀総裁、関係銀行の頭取、大蔵省幹部を集め、対応を協議。傍観者づらした某銀行頭取を一喝して、無担保・無制限の「日銀特融」発動を決め、山一證券の危機を救ったのである。
しかし、1997年の山一證券破綻時には、銀行は支援してくれなかった。もっとも、その原因は山一證券自身にあったといえよう。メインバンクの富士銀行(現・みずほ銀行)は、山一證券の隠蔽体質では損失額が把握しえないと判断、経営支援に後ろ向きだったという。
ただし、世間はそうは見ていなかった。山一証券が破綻すると、「富士銀行は助けなかった」のではなく、「富士銀行には助けるだけの体力がなかったのだ」と、富士銀行(旧・安田銀行)と安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)への信用不安が駆け巡った。富士銀行は単独で安田信託銀行を救済することが難しいと腹をくくり、第一勧業銀行(現・みずほ銀行)と提携して安田信託銀行を救済。その時の信頼感から、経営統合に進んだ。その結果生まれたのが、みずほフィナンシャルグループ(以下、みずほFG)である。
いわば、みずほFGの誕生は、山一證券破綻の副産物だったといってもよいかもしれない。
期待外れだった「平成の薩長連合」
「四大証券」の一角である山一證券が破綻すると、証券会社への信用は地に墜ち、残る3社はそれぞれ大手銀行や外資系金融機関と提携することで、信用保証をアピールせざるを得なくなっていく。
まず、1998年5月に野村證券が、日本興業銀行(現・みずほ銀行)と業務提携を発表した。
提携を持ちかけたのは、日本興業銀行のほうだといわれている。当時、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行の経営不安がささやかれ、長信銀という業態のままでは生き残りが難しいとの認識が広がっていた。そうした状況を打開するため、日本興業銀行は野村證券との業務提携を選んだのだ。当時、証券業界は信用不安で、信用力を相互補完する相手を探しているところだったから、野村證券としても渡りに舟といったところだろう。
野村證券はいわずと知れた「四大証券」の筆頭で、日本興業銀行は長信銀トップで日本を代表する大手銀行だったので、両社の組み合わせは「平成の薩長連合」または「日本連合」と呼ばれ、大いに期待された。しかし盛んだったのは新聞報道だけで、大した成果は得られず、いつの間にか解消してしまった(日本興業銀行がみずほFGへの経営統合を発表するのは、その翌年のことだ)。
(文=菊地浩之)
【後編】「日興證券が裏切り、三菱が怒った…三井住友は大和証券を切り捨て、日興証券と提携した」はこちら●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『徳川家臣団の謎』(角川選書、2016年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)など多数。