2020年の東京オリンピック招致に尽力した竹田恒和JOC(日本オリンピック委員会)会長が、招致にかかわる疑惑の責任を取って2019年6月に退任、さらにIOC(国際オリンピック委員会)の委員としてはひと足先に辞任したことが報じられた(以下、敬称略)。後任のJOC会長には山下泰裕氏が有力視されている。いわずと知れた、ロサンゼルス・オリンピックで金メダルを獲得した柔道家として有名だ。
では、一方の竹田氏にはいかなる経歴があるのか。竹田氏はオリンピックには乗馬で2回出場し、個人成績は42位と39位。いかにもパッとしない。その後、母校・慶應義塾大学の馬術部でコーチ、監督に進み、オリンピックとのかかわりも、日本選手団コーチ、監督、理事といった管理者畑を歩んだ。
しかし竹田氏には、管理者としての力量よりも、旧皇族という肩書が有名だろう。息子の竹田恒泰は、旧皇族としての立場を最大限に生かした作家としても知られる。皇族とは天皇の近親をさす。では、旧皇族とは何だろうか?
旧皇族の実態は、ほぼ“伏見宮家”
明治維新を機に、日本は将軍が治める国から天皇が治める国へと変わった。しかし、時の帝・明治天皇は満16歳の少年で、父・叔父・兄弟はすべて死去していた。皇統の断絶を危惧した明治政府の高官は、明治以前に分かれた4つの「宮家」を「皇族」とした。4つの宮家とは、閑院宮(かんいんのみや)家、有栖川宮(ありすがわのみや)家、桂宮(かつらのみや)家、伏見宮(ふしみのみや)家を指す。この4宮家、皇族になって江戸時代と何が変わったのかといえば、僧籍が減ったことだ。
江戸時代、天皇家や宮家の次男以下の男子は、格式のある寺院の門跡(もんぜき)に迎えられることが多かった。門跡とは当該寺院の僧侶のトップで、通常は妻子を持たない。躰(てい)のいい口減らしというべきかもしれない。ところが明治以降、皇族から門跡になった者はいない。何しろ、皇統の断絶を阻止するための補欠要員である。口減らしするわけがない。伏見宮家は子だくさんで、増えに増えた。
戦後、旧皇族が廃止され、皇籍離脱した際、旧皇族は11宮家に増えていた。といっても桂宮家は1881年、有栖川宮家は1908年に跡継ぎがなくすでに絶えており、閑院宮家は伏見宮家から継嗣を迎えて存続。つまり、それ以外はすべて伏見宮家の分家だったのだ。