男系は遠く、女系は近い
JOC会長だった竹田恒和氏は、戦前、竹田宮と呼ばれた旧皇族である。伏見宮家の19代・邦家親王の9男、能久(よしひさ)親王が北白川宮家を継ぎ、その長男・恒久(つねひさ)王が竹田宮家を創設。2代目・竹田宮恒徳(つねよし)王の3男が竹田恒和氏なのだ。
4つの宮家では肩書が「親王」だったのが、竹田家になると「王」になっている。古代の天皇家では、親王を名乗れるのは子・孫までで、曾孫以下は王を名乗った。1ランク下ということだ。
そして、男系としては非常に遠い。しかし、女系を考慮すれば、竹田恒和氏は明治天皇の曾孫にあたる。
明治天皇には15人の子どもがいたが、成人まで生きながらえたのは、わずか1男4女にしかすぎなかった。1人の男子は大正天皇。4人の女子はみな旧皇族に嫁いだ。上から竹田宮恒久王、北白川宮成久(きたしらかわのみや・なるひさ)王、朝香宮鳩彦(あさかのみや・やすひこ)王、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ、元総理大臣)王。ちなみに北白川宮は竹田宮の兄弟で、朝香宮・東久邇宮兄弟は竹田宮の従兄弟にあたる。
なぜ、明治天皇の娘がすべて旧皇族に嫁いでいるかといえば、やはり皇統の断絶を危惧していたからだろう。旧皇族から天皇を迎えることがあるなら、なるべく明治天皇と血筋がつながっているほうがよい。
ところが、うれしい誤算というか、たった1人の男子・大正天皇が4人も男子をもうけた(娘はいない)。明治天皇の子ども15人に対して、大正天皇に4人しか子どもがいなかったのは、側室がいなかったからだろう。
昭和天皇の子どもは第4子まで娘だった。側室を勧める側近に対して「そのような人倫に悖(もと)ることはしたくない」と断ったというが、戦前にそんなわがまま(?)が許されたのは、男兄弟が3人もいたからだろう。
昭和天皇の決断は、戦後、天皇家を日本人の理想的な家族にすることに成功した。側室がいたら、天皇家が多くの日本人にこれほどの親近感を呼ばなかったろう。その反面、継嗣問題でこれほど悩むことはなかったろう。戦前日本のロジックであれば、旧皇族もまた天皇の候補になりうるのだが、戦後、核家族が一般的となった日本では、国民の感情的に受け入れがたい面はあるのかもしれない。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『徳川家臣団の謎』(角川選書、2016年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)など多数。