オーケストラ、縁の下の敏腕職人「ライブラリアン」とは?膨大な知識量&抜群の対応力
来年1月のニューイヤー・コンサートで指揮をする曲の楽譜が、オーケストラのライブラリアンから送られてきました。ライブラリアンというのは、全世界のどこのオーケストラでもいる楽譜係です。年に100回以上あるさまざまなプログラムの楽譜を用意して楽員に配ったり、リハーサルやコンサートでは楽器ごとに違う楽譜を間違いなく譜面台に設置する仕事です。
なかには手に入れるのが困難な楽譜もあり、それこそ右往左往して探しまくる状況になっても、リハーサルまでには当然のように楽譜を揃えなくてはなりません。演奏会後も、楽譜を整理して楽譜整理棚にしまったり、楽譜出版社に送り返したりと大忙しで、さらに同時に次のプログラムの楽譜の用意をしなければなりません。
当然のことながら、彼らは音楽の知識が豊富なだけでなく、楽器の特性も理解している必要があり、またどこの出版社が必要な楽譜を出版しているかも把握しています。指揮者も、勉強部屋の書棚にたくさんの楽譜を並べていますが、彼らの知識量にはとうてい及びません。それくらい、ライブラリアンは特別職なのです。
ライブラリアンの仕事は、オーケストラの定期演奏会のような「序曲、協奏曲、交響曲」という定番プログラムよりも、子供のためのコンサートやニューイヤー・コンサートのような5~10分程度の曲がたくさんあるプログラムのほうが大変なようです。意外と小品のほうが楽譜を入手しにくい場合もあり、無事にリハーサルが始まっても、楽員が「次の曲の楽譜はどこだ?」と探す事態にならないように、全員の譜面台に、たくさんの楽譜を順番通りに並べて置く作業も重要です。
ときには、コンサート前日にやってきた歌手から、「キーが高すぎて歌えないよ。もう少しキーを下げた楽譜で」などと、急に言われることもあります。そんな時はひと騒動です。歌手が指定したキーの楽譜が手元にあればいいのですが、手元になかったとしても翌日のコンサートまでには、楽員の譜面台にばっちり揃えて置かなくてはなりません。さらに、真っ青になって楽譜店やほかのオーケストラのライブラリアンに問い合わせをしている最中に楽員が訪ねてきて「再来月に演奏するフルートの楽譜を見たいんだけど」といったのんきなお願いにも笑顔で対応しなくてはならないので、精神的に落ち着いていることも必要なのでしょう。僕には到底できません。
そんなライブラリアンにも、ひとつ役得があります。それは、どんなに世界的に有名な指揮者であっても、コンサートの直前に身近に話せるということです。それは、ステージに指揮者の楽譜を持っていく役割も担っているからです。そのため、ほかのスタッフから「マエストロは来ていた?」と尋ねられたり、気難しくて有名な指揮者の場合には「今日のマエストロのご機嫌はどう?」と楽員から聞かれたりすることもあるようです。
ライブラリアンは、もちろん指揮者の楽譜も用意しています。実際には、大概の指揮者は自分で楽譜を使用しますが、最近作曲された新曲や、あまりやらない曲の場合、楽譜自体が販売されていないので、楽譜をレンタルしたライブラリアンが指揮者の自宅に送付します。それ以外でも、指揮者が所蔵していない小品の楽譜を送ることもあり、今回僕はヨゼフ・シュトラウスの『鍛冶屋のポルカ』の楽譜を送ってもらったのです。
『鍛冶屋のポルカ』誕生の裏側
余談ですが、『鍛冶屋のポルカ』とは変な名前だなと思われた方に、少しこの曲について説明します。作曲したヨゼフ・シュトラウスは、19世紀のウィーンで活躍し、名曲『美しき青きドナウ』の作曲者で“ワルツ王”と呼ばれたヨハン・シュトラウスの弟です。空前のブームを巻き起こしたシュトラウス兄弟は、作曲すれば毎回大当たり。毎晩、ウィーンの人々はシュトラウス兄弟の曲の生演奏を聴きながら、バブル時代の「ジュリアナ東京」のように夜中までワルツを踊っていました。
そんな彼らですが、しかめ面をして交響曲を書いていたベートーヴェンとは違い、“職業音楽家”といえるかもしれません。兄ヨハンが『美しき青きドナウ』を依頼された際も、超多忙な彼は一旦断りつつも、ただ断るだけでなく「今はできないのですが、来年やらせていただきます。尊敬する協会(依頼主)のためならば、特製の新曲を提供するなんてお安い御用です」などと言ったりして、まるでやり手の営業マンのようです。しかし、そんな感じで作曲したワルツが、ヨハン・シュトラウスの代表作となっただけでなく、世界で今でも知られている名作中の名作になったのですから、不思議なものです。
さて、ある日、弟ヨゼフが1869年に金庫メーカーのヴェルトハイム商会から、耐火金庫2万個の製造を記念して作曲してほしいという依頼を受けました。この当時でも耐火金庫があったことに驚きますが、ヴェルトハイム商会は花火大会とヨゼフの新曲を目玉にした舞踏会を催すことにしたのです。しかし、耐火金庫を火と絡めた花火大会に比べて、ヨゼフがただ新しい曲を発表するだけではインパクトが弱かったでしょう。そこでヨゼフが上手だったのは、金庫をつくった鍛冶職人を讃えたポルカを書いたことです。
ポルカとは、ワルツと同じくシュトラウス兄弟の十八番のダンス音楽です。この『鍛冶屋のポルカ』では、ヨゼフはなんと鍛冶仕事を表現するのに、高温に熱した鉄を鍛えるために使う金づちと金床を打楽器として使用したのです。オーケストラの優雅な音の中に、本物の金づちと金床が発した「キーン」という音がホール中に響き渡るのは、ものすごいインパクトです。依頼主だけでなく、働いていた鍛冶職人も大喜びだったこと間違いなし。そんなサービス精神旺盛なシュトラウス兄弟には、次から次へと新曲依頼が殺到したことでしょう。
話を戻します。ライブラリアンが指揮者の楽屋に楽譜を取りにいっても、本番ギリギリまで楽譜を渡してくれないことがあります。楽員がステージに上がり始める頃になって、やっと渡してもらい、駆け足で舞台袖に来た頃には、チューニングがすでに終わっています。それでもまだオーケストラの本拠地では、ライブラリアンも顔が知られているのでいいのですが、ほかの街や国に行って演奏する場合などは大変です。急ぎ足で楽譜を抱えてステージに上がってきたライブラリアンが、指揮者の登場と間違えた観客の盛大な拍手に迎えられ、恥ずかしそうに楽譜を譜面台に置いている姿を、海外で何度か見たことがあります。
(文=篠崎靖男/指揮者)