オーケストラ、舞台上で交わされている“無言の合図”…コンサートマスターの動きの秘密
「コンサートマスターが気持ちよさそうに体を動かしながら演奏しているけれど、ほかの奏者がほとんど動かないのは、あまり楽しくないのだろうか?」
オーケストラコンサートを聴いている時に、こんなことを感じる方もいるかもしれません。コンサートマスター以外の奏者が楽しんでいない可能性はゼロとは言えませんが、実際のところ、コンサートマスターは楽しいから体を動かしているわけではないのです。
ときには100名近くで演奏するオーケストラの音を合わせるのは簡単ではなく、それをいかに揃えるかが指揮者の大事な仕事です。ただ、実際に細かい音を合わせるのは、メンバー同士がお互いの音を聴き合いながら行いますし、何よりも自分のオーケストラを熟知しているコンサートマスターの役割は、指揮者以上ともいえます。
指揮者がオーケストラにポジションを持っていたからといって、そのオーケストラの定年まで所属するわけではなく、数年単位の契約制で、長くても10年くらいの任期です。さらに、そもそもコンサートをすべて指揮するわけではありません。たとえば、1年間に100回コンサートがあったとしても指揮をするのは20回程度で、それ以外の80回のコンサートを指揮するのは客演指揮者です。客演指揮者はそれぞれ1年か2年に1回程度の登場で、なかには初めて招かれ、そのオーケストラのことをまったく知らない指揮者もいます。
そこで、常に仕事を共にし、オーケストラの状況を一番把握しているコンサートマスターが重要な役割を果たします。メンバーのほうも、コンサートマスターの特徴をよくわかっているので、そこには独特な信頼関係が構築されており、下手な指揮者が来ても一定の演奏レベルを保つことができるのは、この信頼関係の賜物です。
指揮者が棒を振り下ろしても、音符によっては、コンサートマスターが弾き始めないとオーケストラが演奏できない場合もあります。コンサートマスターは、指揮者のやりたい音楽を理解し、オーケストラを合わせ、美しいサウンドをつくる“実務の責任者”という重要な役割を担っているのです。
コンサートマスターの一挙一動が演奏を左右
そんなコンサートマスターが体を動かすのは音を合わせるためで、その動きによって周りに音の出を伝えるのですが、これが簡単ではなく、ほんの少しでもタイミングがずれたらオーケストラは大混乱です。もちろん、豊富な経験も必要で、ただ自分が楽しんで自由に体を動かすようなことは絶対にできません。
とはいえ、ただ体を動かせばいいということでもないそうです。世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に、日本人としてはもちろん、東洋人で初めてコンサートマスターになった安永徹さんは、入団時には一般奏者だったのですが、コンサートマスターが体を動かしすぎると混乱してしまうという経験があったそうです。そこで、自身がコンサートマスターに就任した際には、合図のための動きは最小限にコンパクトになさっていたと聞いたことがあります。
ちなみに、コンサートマスターだけでなくフルートやトランペット、トロンボーンのような管楽器奏者も、体を動かすことにより仲間に合図を送っています。手や指で直接合図をできれば簡単なのでしょうが、手指は演奏に使っているから不可能なのです。そのため、演奏をしながら体や楽器を動かして合図を送っているわけで、いわばプロ中のプロの繊細な動きなのです。
そのなかでも、オーケストラのリーダーであるコンサートマスターは、オーケストラ全員から一挙一動を見られており、弓の動き出しすらも凝視されています。実はオーケストラでは、指揮者よりもコンサートマスターの弓の動き出しによって自分の音を出すタイミングを計るケースが多くあり、そこにはものすごい集中力を必要とします。
たとえば、コンサートマスターの弓が動いたのを見てから音を出したら、遅れてしまいます。では、どうするのかといえば、まるで武術の居合術のように、コンサートマスターの弓の動き出しのタイミングを読んで同時に演奏を始めるといった、想像もつかない難しいことが世界中のオーケストラでは行われているのです。
そんなコンサートマスターは、自らオーケストラ全体を眺めるだけでなく、オーケストラからも見てもらいやすいように、周りに比べて一人だけ高い椅子に座っています。
オーケストラの“無言の合図”
今回紹介したような“無言の合図”は、オーケストラには結構あります。
静かな曲を演奏した直後、指揮者がそのまま腕を下ろさずにじっとしていることがあります。クラシック音楽特有の余韻を楽しんでいるわけですが、そんな時にはオーケストラも楽器を構えたままで、まるで時間が停まったかのように動きません。むしろ、動いてはいけないといったほうがよいでしょう。
しばらくして指揮者が腕を下ろすと楽員たちも楽器を下ろせるわけですが、同時に楽員の吐く息の音が聴こえるような気がするので、彼らは息も殺しているのだと思います。とはいえ、これは決まり事ではなく、オーケストラもやはり余韻を大切に考えていることの表れでしょう。1人でも楽器を下ろしたら雰囲気が台無しですし、観客席からも咳ひとつ聴こえない特別な静寂の時間です。これもクラシックコンサートの楽しみのひとつといえるでしょう。
演奏後、指揮者が奏者を指さすことがありますが、その奏者に“立ってほしい”という合図です。一般社会にはない習慣でしょうし、そもそも相手を指さすのは失礼に当たります。そんなこの作業は、指揮者にとっては意外と難しいのです。誰でも立たせればいいわけではなく、曲の中で大きなソロがあった奏者を立たせるのですが、指揮をした直後の高揚した気持ちの中で、一番立たせなくてはいけない奏者を忘れてしまったことも、実は結構あります。
コンサートから1年くらいたっていても、「あの曲で立たせてもらえなかったのは初めてです」と奏者が言っていたと、後から聞いたこともあります。それを教えてくれた親友のオーケストラ奏者に、今後はどうすればいいかを聞いたところ、「全員立たせればいいじゃん」と、冗談か本当かわからないアドバイスをもらいました。
そのためか最近、全員の奏者を順番に立たせていく指揮者も増えてきたことは確かです。もちろん、観客にとっては、お目当ての奏者に対して盛大に拍手をするチャンスとなるので、大喜びでしょう。
(文=篠崎靖男/指揮者)