キヤノンが、光の粒ひとつを検知してより鮮明な画像処理を可能にする、新しいセンサー(SPADイメージセンサー、以下SPADセンサー)の量産を目指している。同社が、これまで難しいとされてきたSPADセンサーの多画素化を実現したことは画期的だ。
キヤノンのSPADセンサーは、これまでにはなかった画像体験を可能にすることによって、画像処理のゲームチェンジャーになる可能性を持つ。SPADセンサーは光の粒の数を計測し、それを倍増させることによって暗闇でのカラー撮影などを可能にする。それはスマホカメラなどに搭載されているCMOSセンサーでは実現が難しかった。
今後の注目点は、どのようにしてキヤノンがSPADセンサー市場での先行者利得を手に入れるかだ。国内企業に加えて、中国や米国、韓国でも画像処理センサー分野での研究開発や量産体制の強化が加速している。自動車業界でのCASEの取り組みやメタバースなど、より高機能の画像処理センサーの活用が期待される分野も増えている。キヤノンは競合企業に先駆けてより多画素のSPADセンサーなどを開発し、画像処理関連のさらなるイノベーション発揮を目指すだろう。
キヤノンが世界で初めて開発したSPADセンサー
2020年6月、キヤノンは世界で初めてSPAD(Single Photon Avalanche Diode)に関する技術を用いて、100万画素レベルの画像処理センサーを開発したと発表した。フォトンとは光の粒(光子)を意味する。また、アバランシェ(あるいはアバランチ)は雪崩を意味する。SPADとは、光の粒一つを検出して、それを雪崩のように増幅させるダイオード(素子)と考えればよいだろう。
今日、キヤノンなどが生産しスマホカメラなどの画像処理センサーとして使用されるCMOSセンサーでは、一定の時間内に溜まったフォトンの量を計測する。フォトンがセンサー内に貯留される際に、画像以外の不要データ(ノイズ)も混入する。そのため、画質が低下する。
それに対して、SPADセンサーは、フォトン1個の入射をとらえる。つまり、光の数を数える。その技術を“フォトンカウンティング”と呼ぶ。理論上、SAPDセンサーでは光の数を数えるためにノイズは入りにくい。その上でSPADセンサーはとらえた光を電気的に増幅して(雪崩式に増加させ)デジタル信号に変換することによって、より鮮明な画像の出力を可能にする。
ただ、SPADセンサーには、多画素化が難しいという課題があった。SPADセンサーはフォトンをとらえ、電気的に倍増する。センサー内で高い電圧を発生させるためには、ダイオードに絶縁破壊防止の耐圧構造を設けなければならない。そのため画素のサイズを小さくすると光を検出できる感度領域が小さくなり、とらえられる光の粒が減少するという課題があった。それが、多画素化が難しいと考えられてきた理由だ。
キヤノンは新しい回路技術を用いることによって感度領域を大きく広げ、SPADセンサーの多画素化を実現した。新聞報道によると、2022年には320万画素のSPADセンサーの量産が目指されているようだ。課題を克服する画像処理関連の製造技術の確立と、それに磨きをかけることこそが、キヤノンの強みだ。その技術を用いることによって、キヤノンはこれまでにはない画像体験という需要を創出しようとしている。
期待される画像処理のイノベーション
SPADセンサーの実用化、多画素化の実現によって、キヤノンは様々な分野でのイノベーション発揮を目指している。
その一つに、自動車分野がある。光を用いて物体の検知と距離の計測を行う技術は、自動車の自動運転技術の実用化や高度化に不可欠な技術として重要性が高まっている。キヤノンが開発したSPAD イメージセンサーは100ピコ秒(ピコは1兆分の1)の間隔で画像をとらえることができ、高速に移動するモノを撮影し、距離を測定するために欠かせない。その技術は自動運転技術の向上に大きく貢献するだろう。
キヤノン以外にも、わが国ではソニーやニコン、デンソーなどが車載センサー分野で製造技術を磨いている。キヤノンは車載分野でのSPADセンサー需要を取り込むために、自動車メーカーや、自動運転のソフトウェア開発を行う企業などとの提携を強化するだろう。それによって、自動運転を支える画像処理センサメーカーとしてのキヤノンの競争力は一段と高まる可能性がある。
また、SPADセンサーの普及は、メタバースを加速させる要素にもなるだろう。仮想空間を意味するメタバースでは、ネットワーク上の3D空間で人々が交流する。一つの着眼点として、わたしたちが認知してきた実社会の光景、あるいは、実際に起きているが目には見えなかった自然界の現象などがメタバースの世界で再現されれば、これまでには実現が難しかったダイナミックかつ鮮烈なゲームや映画などの体験が創出されるだろう。そのためにキヤノンが実現したSPADセンサーの多画素化技術がどういった威力を発揮するかが興味深い。
そのほかにも、SPADセンサーの活用が期待される分野は増えている。具体的には、デジタルカメラの機能向上、企業の生産現場で用いられる製造装置の稼働状況のモニタリングや異常検知、トンネルなどインフラの保守、医療分野での画像診断、宇宙開発、農業分野でのデジタル技術の導入加速などがある。
キヤノンが目指す画像処理技術の高度化
今後の展開としてキヤノンに期待するのは、世界トップの画像処理技術に関する研究開発を進め、新しいセンサーなどの製造技術を確立することだ。
キヤノンの事業運営を振り返ると、同社はカメラなど光学関連の製造技術からスタートし、プリンター、デジタルカメラ、医療分野での画像診断装置、およびCMOSやSPADセンサーの開発など、一貫してより高精度な画像処理の技術を磨いてきた。つまり、キヤノンは画像処理に関する新しい取り組みを強化することによって長期存続を目指す企業だといえる。
さらには、光学や画像処理分野でのノウハウなどを活かして、キヤノンは半導体の回路を形成する露光技術の分野でもイノベーションを目指している。それが、ナノインプリントリソグラフィ技術だ。最先端の半導体製造では極端紫外線(EUV)を用いて回路を形成する。EUV露光装置を生産できるのは、オランダのASMLのみだ。事実上の独占であるため、装置は高額だ。また、大量の電力も消費する。
その一方で、キヤノンが取り組むナノインプリントリソグラフィ技術では、シリコンウエハにハンコを押し付けるようにして回路を形成する。工程数が少ない分、半導体メーカーの設備投資負担は少なくて済むと期待されている。半導体製造装置分野でのより微細な製造技術の実現は、キヤノンの画像処理センサーの競争力向上にもつながるだろう。
キヤノンは海外では米国や中国、韓国などの企業がSPADセンサーの研究開発を強化し、画像処理分野でのシェア獲得に取り組んでいる。競争の激化に対応して生産性を高めるためには、常に新しいモノやサービスを生み出すことが欠かせない。反対に、新しい需要を生み出すことが難しくなると、商品はコモディティー化し、価格競争に巻き込まれる。
キヤノンにはあきらめることなく、他社に先駆けて新しい画像処理を可能にする技術を追求してもらいたい。当面の注目ポイントは、同社が競合企業に先駆けてSAPDセンサーなど高付加価値型の製品の市場投入を進め、新しい収益源を確立することだ。その上で、どのような新しい機能を持つ画像処理技術の開発に同社が獲得した資金を再配分するかに注目が集まるだろう。
(文=真壁昭夫)