わが国を代表する素材メーカーの東レは、独自に開発した「単層カーボンナノチューブ」と半導体ポリマーの複合体を用いて、フィルム上に半導体回路を塗布形成する技術を確立した。新しい半導体部材の供給は、新しい製品の創出やビッグデータの収集など世界経済の効率性向上に欠かせない。単層カーボンナノチューブが世界の素材市場に与えるインパクトは大きい。東レは電気特性に優れた新しい樹脂も開発した。
コロナウイルスの感染再拡大等によって、東レの収益構造は急激に変化している。世界経済の緩やかな持ち直しやデジタル化の加速を背景に樹脂やポリエステルフィルムなど同社の化成品事業は堅調だ。その一方で、航空機需要の落ち込みにより、同社が世界トップシェアを誇る炭素繊維事業の収益は不安定だ。中国経済の減速は、今後の業績にマイナスの影響を与える恐れがある。事業運営の不確定要素が増える中で、どのように同社が新しい素材を生み出して長期の存続を目指すかが注目される。
注目集める東レの単層カーボンナノチューブ
東レは、早くから単層カーボンナノチューブの研究開発を重ね実用化を目指してきた。それは、世界経済にかなりのインパクトを与える可能性がある。カーボンナノチューブは、電気の伝導性、熱伝導性、耐熱性の面で既存の素材よりも高い性能を持つ。また、カーボンナノチューブは、直径が0.4~50ナノメートル(1ナノメートルは10億分の1メートル)と極めて微細だ。利用が期待される分野は広い。例えば、カーボンナノチューブを塗料に混ぜることによって、電気を通すことが可能になるだろう。
構造の違いによってカーボンナノチューブは2つに分類される。複数の層を持つものを多層カーボンナノチューブと呼ぶ。1層のものを単層カーボンナノチューブと称される。東レが研究開発をした単層カーボンナノチューブの性能は多層を上回る。その強度は鋼の20倍、熱伝導性は銅の10倍、電気伝導性は銅の1000倍といわれる。鉄と異なり錆びることもない。しなやかであることも、その特徴だ。そのため単層カーボンナノチューブは“夢の素材”と呼ばれることがある。
ごく微細かつ層が一つであるということは、分解が難しいことを意味する。夢の素材であるだけに、先行者利得を手に入れようとする企業や国は増えている。中国共産党政権は産業補助金を支給してカーボンナノチューブの研究開発を強化した。しかし、単層カーボンナノチューブの量産体制の確立は容易ではないようだ。特に、単層カーボンナノチューブには互いに集まりやすい性質がある。均一に分散した単層カーボンナノチューブの薄膜を作ることは難しいとされる。
東レは独自に開発した半導体ポリマーと単層カーボンナノチューブを複合化し、安定した電気伝導性を実現した。その上で同社はフィルム上に半導体の回路を“塗布”する技術の向上に取り組んでいる。東レは単層カーボンナノチューブの製造方法を確立し、その利用範囲を増やそうとしている。
今後期待されるICタグ分野での取り組み
その一つとして、東レは塗布型半導体の製造技術を用いて、世界のICタグ市場での競争力向上を目指している。塗布型半導体とは、フィルムやガラスなどさまざまな素材の上に半導体の回路を印刷する技術を指す。
今日、半導体はシリコンウエハーなどの固い基板の上に回路を形成する。その工程は多岐にわたる。まず、シリコンの棒をカットしてシリコンウエハーをつくる。ウエハー上に酸化膜を作る。その次に感光剤(フォトレジスト)を塗布し、光を照射して回路をウエハーに焼き付ける(露光)。ウエハーは現像液に入れられ、露光された部分が解けて酸化膜をむき出しにするなどのプロセスを経る。それに比べて、塗布型の半導体製造の場合、コピー機で書類を複写するようにして半導体の回路がフィルムなどさまざまな部材の上に形成される。シリコンウエハーを用いた半導体製造に比べて工程数は少なく、コスト削減が期待される。柔らかい素材の上に半導体回路を形成することもできる。
2017年、東レは単層カーボンナノチューブ複合体を用いて、既存のディスプレイよりも移動度(電子の移動のしやすさ)が約80倍高い半導体素子を形成した。移動度の向上はICタグの通信速度の向上などに欠かせない。東レは塗布型半導体の回路形成技術に磨きをかけ、世界最高レベルの移動度を実現している。その成果の一つとして、東レは企業が在庫管理などに使うICタグの製造コストを1枚当たり2円以下に引き下げることに成功した。
従来、ICタグの価格は(性能にもよるが)10~20円程度といわれてきた。世界経済のデジタル化の加速によって、無人店舗の運営やより効率的な物流網の確立のために、ICタグの需要は増加する。企業がサプライチェーンマネジメント力を高めるために高性能のICタグの需要は増える。低価格かつ高速通信に対応できるICタグの供給を増やすことによって、東レは物流をはじめ経済運営の効率化に関するニーズを有利に取り込むことができるだろう。
東レに期待する新しい素材創出力
新しい素材の創出は、企業家の創意工夫を刺激して新しい製品の創出を支える。創業来、東レはそれを体現してきた。第2次世界大戦後、東レは化学繊維の製造技術を磨いた。それは、日本の繊維や化成品産業の生産性向上を支えた。
東レはその技術を炭素繊維分野と結合した。炭素繊維で磨いた製造技術を、東レはカーボンナノチューブと結合した。同社は新しい素材の創出力を磨き、世界経済の最先端分野での需要を獲得しようとしている。例えば、東レが塗布型半導体の製造技術を用いてICタグの製造コストをさらに引き下げることができれば、人々の行動データをより多く収集できるだろう。それは、メタバース時代における新しいサービスや製品の開発に欠かせない。
カーボンナノチューブは自転車のフレームや燃料電池、キャパシタ(コンデンサ)、建築材料など多くの分野での利用も期待さる。東レが単層カーボンナノチューブを用いたEV車体の素材や部材を供給することは、EVの走行距離延長に寄与するだろう。日本には、米中のような有力ITプラットフォーマーや先端企業が見当たらない。東レの素材創出力は、日本が世界の最先端分野の需要を取り込むためにも不可欠だ。
その一方で、カーボンナノチューブは非常に微細な素材であるために健康に悪影響を与える恐れがあると指摘されている。新しい素材の持続的な利用は、安心と安全の確立なしに進まない。製造工程での安全性の確立に加えて、廃棄、リサイクルなど、新しい素材のライフサイクル全体を通して循環的なエコシステムの確立は急務だ。
コロナショック発生によって世界のサプライチェーン寸断は深刻化し、その状況は続くだろう。そのなかでも、東レの化成品事業は世界的な競争力を発揮している。素材創出の総合力という点で、東レの比較優位性は高い。東レ経営陣が既存事業で得られた経営資源を新しい素材の製造技術確立により多く再配分し、強みに磨きをかける展開を期待したい。
(文=真壁昭夫/法政大学大学院教授)