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森永製菓と森永乳業、メンツ優先のいがみ合いで完全漂流…統合した明治の背中遠のく

文=Business Journal編集部
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森永製菓が所在する森永プラザビル(「Wikipedia」より

 兄弟会社が一緒になることは、結局なかった――。

 森永製菓は3月1日、東京証券取引所の立会外取引で森永乳業株430万株を売却し、保有比率(自己株式を除く議決権ベース)を12.70%から4.01%に引き下げた。コーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)の改訂を踏まえ、政策保有株を減らし、資本効率を高めるのが狙いだとした。森永乳業は同日、森永製菓が売却した森永乳業株式について、264億円を上限とする自社株買いを実施した。2月28日の終値5760円で買い付け、株価下落への悪影響を最小限に抑え込んだ。

 森永製菓は株式売却による売却益219億円を計上する。2022年3月期の連結純利益は前期比2.1倍の280億円に急増する見通しだ。5%減の128億円の減益の予想から、大幅な増益に反転する。売上高は従来の1792億円を据え置いた。あわせて、最大100億円で自社株買いを実施する。発行済み総数の5.96%、300万株に相当する。取得期間は3月1日~23年2月28日である。

何度も浮上しては消えた経営統合

 森永製菓と森永乳業はこれまでにも何度も経営統合を検討してきたが、そのたびに見送った経緯がある。08年12月、両社の統合交渉が報じられた。明治製菓と明治乳業が経営統合して明治ホールディングスが誕生すると発表された直後のことで、いよいよ「大森永の誕生か」と受け止められた。しかし、交渉は進展しなかった。

 両社が再び経営統合に動いたのは17年2月。「経営統合に限らずさまざまな可能性について検討している」とのコメントを発表した。新会社の連結売上高は7850億円、営業利益は370億円の規模となるとした。18年4月をめどに持ち株会社方式で経営統合する計画だった。

 だが、わずか1カ月余りで“婚約”を解消した。17年3月30日、統合見送りを正式に発表した。統合後の人事で対立したためだった。乳業社長の宮原道夫が持ち株会社の会長に、製菓社長の新井徹が社長に就く案に、乳業側から反対が噴出したと伝わっている。

 資本関係で見ると乳業は製菓の子会社だが、売上高は乳業が製菓の3倍。17年3月期の売上高は乳業が5926億円、製菓は1994億円。製菓に経営統合の主導権を握られることに、乳業側は我慢ならなかった。合意目前で白紙撤回となり、それぞれが単独路線を継続することになった。

 それから2年後の19年、統合話が再び世間を賑わした。共同通信は19年7月16日、「森永乳業が森永製菓との経営統合を視野に諮問委員会の導入を検討している」と報じた。シンガポールに本拠を置く「物言う株主」が合併を再検討するよう要求したという。この新興ファンドはローン・アルファ・キャピタル・マネジメントで、乳業株を4%弱、製菓株も保有していたとされる。

 森永乳業側は報道に対して、「経営統合や諮問委員会の導入を検討している事実はない」と完全に否定した。一時、乳業株が急騰するなど、株式市場が経営統合に大きな期待を寄せていたことがわかる。

森永製菓は安倍晋三元首相の昭恵夫人の実家

 森永の名前を冠する兄弟会社でありながら統合が進まない理由は、両社の経営陣に根深い確執があったからだ。ボタンを掛け違えた歴史を振り返ってみよう。

 1899年8月、洋菓子の製法を身につけた森永太一郎が米国から帰国し、東京・赤坂溜池にわずか2坪の菓子工房をつくり、森永西洋菓子製造所の看板を掲げたのが森永製菓のルーツである。創業から6年後の1905年、羽をはばたかせ大空を翔るエンゼルを商標にした。

 同年、10歳年下の松崎半三郎を支配人として迎えた。このとき松崎は条件を出した。「あなたは製造に専念し、私に営業を任せなさい」「個人商店では限界があるので、近い将来、株式会社に改めること」と付け加えた。約束に従い、森永は1910年、株式会社森永商店を設立。2年後に森永製菓に改称した。製造の太一郎と販売の松崎のコンビがつくり出すスイーツはエンゼルの翼に乗って大いに売れた。「森永翁と私とは、表と裏、形と影の関係であった」。松崎は後年、2人の関係をこう語っている。

 両家が縁戚関係になるのは孫の代になってからだ。太一郎の孫、恵美子と松崎の孫・昭雄が結婚した。草創期のパートナーであった森永・松崎両家は血縁で結ばれた。昭雄・恵美子夫妻の長女、昭恵が安倍晋三元首相の夫人。昭恵は奔放な行動が仇となり、スキャンダルの渦中の人となった。

乳業のドンの退任を機に統合に向けて再び胎動

 太一郎の孫、森永剛太は97年、松崎昭雄の後を継いで森永製菓の第6代社長に就いた。創業家直系の3代目は統合への意欲を隠さなかった。製菓は乳業の発行済み株式の10.53%(21年9月中間期)を保有する親会社だが、両社の関係は微妙なバランスの上に成り立っていた。

 乳業の前身は1917年、森永製菓が設立した日本練乳である。20年、製菓と合併後、49年、森永乳業として分離独立した。55年に森永ヒ素ミルク中毒事件が起きた。森永乳業が乳業トップの座を滑り落ちただけにとどまらず、菓子の不買運動に発展。製菓の経営に大打撃を与えた。

 森永製菓が乳業に不信を抱く原因ともなった。創業家の扱いが両社の関係をさらに悪化させ、感情的対立にまで先鋭化してしまった。ヒ素ミルク事件以後、乳業では森永家以外の人物がトップに就いてきた。大野勇が事態を収拾し、再建を果たした。彼は森永乳業の“中興の祖”と呼ばれている。

 1985年、勇の次男、大野晃が乳業の社長に就いた。親の勇から子の晃への世襲である。製菓の社長だった松崎昭雄が「オーナー家でもないのに、なぜ(世襲)なのだ」と異論をとなえた。これに対して晃は、「製菓でも番頭の松崎が社長になっているではないか」と反発したという。このことが両社の経営陣の感情的な軋轢を生み、長年解消されることはなかった。

 ライバルの明治製菓と明治乳業の統合に強く刺激された創業家の森永剛太は「大森永」誕生に意欲を燃やした。だが、「乳業の大野晃が目の黒いうちは、大同団結は難しい」というのが、業界の一致した見方だった。

 乳業のドンとして30年間君臨してきた大野晃は、15年6月、会長を退任した。創業家の森永剛太も18年6月、製菓の会長を退いた。これで障害が消えた。森永製菓森永乳業は統合に向けて動き出すとみられたが、それでも大同団結は実現しなかった。

 いち早く製菓と乳業が統合した明治ホールディングスの22年3月期の売上高は1兆90億円だが、森永系はいまだに別々の会社で、業績で大差をつけられてしまった。森永乳業の22年3月期の連結決算の売上高は5000億円、純利益は346億円の見込み。「収益認識に関する会計基準」を適用するため、前期との増減率は開示していない。ちなみに21年3月期の売上高は5835億円、純利益は187億円だった。

 大幅な増益になるのは20年、生産を停止した近畿工場(兵庫県西宮市)の跡地の売却で186億円の売却益を計上するためだ。生産拠点の再編と遊休資産の現金化を進めており、21年、生産を中止した東京工場(東京・葛飾区)の土地も売却する。引き渡しは23年4月の予定で23年4~6月期に650億円の固定資産売却益を計上する方針だ。

 明治ホールディングスの年商が1兆円超をキープしているのに対して、森永系の2社の合計は7000億円弱(22年3月期の合計は6792億円)である。世界の食品業界は大型再編で様替わりしたが、経済合理性よりメンツや経営陣のプライドが優先された森永系2社は、完全に取り残されてしまった。

(文=Business Journal編集部/文中、敬称略)

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