ミャンマーでアウンサン・スーチー国家最高顧問ら政権幹部を国軍が拘束する軍事クーデターが勃発し、現地に進出している日本企業の間に衝撃が走った。2月1日のクーデター発生から1カ月が経過したが、2月28日には治安部隊が各地で発砲するなど、デモの抑え込みに躍起となっている。国連人権高等弁務官事務所によると、18人以上が死亡、30人を超える負傷者が出た。市民は「不服従」で抵抗を続けており、混乱は各地で拡大している。
キリンホールディングス(HD)はクーデター発生から4日後の2月5日、ミャンマーでのビール事業に関し、国軍系複合企業との合弁を早期に解消すると発表した。クーデターで実権を掌握した国軍の資金源となっている可能性を、人権団体や国連から指摘されていた。すでに合弁解消を申し入れており、今後別のパートナーを探して同国での事業継続を目指す。しかし、「市民は国軍系企業の傘下の会社が手掛けるビールやたばこなどの不買を呼びかけている」と現地では報じられている。
多くの日本企業が合弁事業を展開している。クーデター後、合弁解消の動きが明らかになったのはキリンHDが初めてであった。
キリンHDは苦渋の選択
キリンHDの磯崎功典社長は2月15日の決算会見で、「ミャンマーから撤退しない」との考えを明らかにした。合弁相手との「パートナーシップのもとでは、期待されるビール事業を継続することができなくなったと判断した」と説明する一方で、「ミャンマーから撤退することを意味するものではない。引き続きミャンマーでのビール事業を通じて同国に貢献していく」と述べた。
ミャンマーのビール事業の合弁相手である国軍系複合企業ミャンマー・エコノミック・ホールディングス(MEHL)と合弁解消に向けた交渉を始めたことを明らかにした上で、協議を急ぐ考えを示した。事業を続けるために「新たな現地企業を迎えたい」とした。
キリンHDは2015年、MEHLとシンガポールの飲料大手が経営していたビール最大手のミャンマー・ブルワリー株式を697億円で取得。ミャンマー市場に参入した。ミャンマー・ブルワリーの20年の売上高は318億円、事業利益は138億円と絶好調だ。17年、MEHLとキリンHDはミャンマー北部で中堅ビール会社、マンダレー・ブルワリーを設立した。いずれも出資比率はキリンHD 51%、MEHL 49%である。
ミャンマーのビール市場は「ここ10年間で6倍になった成長市場」(関係者)といわれている。「キリンHDが買収した2社のシェアは合わせて9割に達する」(同)。
2月19日付日本経済新聞で磯崎氏は次のように述べている。
<MEHLが株式売却に応じるかは不透明だ。磯崎社長は「MEHLが理解を示しても、軍が売却を拒否する恐れもある」と警戒する。現時点で「事業撤退の選択肢はない」と強調したものの、MEHLが売却に応じない場合は「ミャンマーから最終的に出て行くしかない」と撤退の可能性を示唆した>
「1年もかけたくない」と年内決着を強調したが、初めて「撤退」を公式に口にした。国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは20年9月10日、ミャンマーの国軍系企業の株主に国軍部隊が含まれ、配当が軍の資金源になっていることを示す報告書を発表した。 国軍系企業のMEHLは、金融、農業、鉱山採掘など幅広い事業を手掛ける複合企業。国軍最高司令官らの監督下にあり、取締役は全員が軍人か退役軍人が務める。現役兵や退役軍人への福利厚生を目的とした年金基金を運用するファンドだ。
アムネスティの報告書によると、MEHLの株式の一部は国軍の地方司令部や部隊が保有する。17年にロヒンギャの村での掃討作戦を指揮した司令部も含まれる。各部隊に支払われた配当金の具体的な使い道は不明だ。アムネスティはミャンマー政府に対し、「MEHLを国営企業に改組し、国軍から切り離す」などの改革を提言した。収益で基金を設置し「人権侵害の被害者の救済にあてるべきだ」と求めた。
今回、ミャンマー国軍がクーデターを起こした背景には“利権”を守る狙いがあると指摘されている。国連人権理事会の調査団は19年8月、国軍の経済活動に関する報告書をまとめ、外資企業に国軍系企業との関係の解消を求めていた。
キリンHDが合弁解消を決断した背景にあるのが、米国による制裁だ。バイデン米政権は2月11日、クーデターを指揮したミン・アウン・フライン国軍最高司令官ら国軍幹部10人と、国軍と関係が深い3社を制裁対象に指定した。ロイター通信によると、この3社は宝石を扱う会社でMEHLの傘下にある。
「キリンHDはMEHLに合弁解消を申し入れているが、国軍がそれを許すとは思えない」(ミャンマー事情に詳しい経済人)
「MEHLがダミー会社をつくって、キリンHDはその会社をパートナーにするといった抜け道を探すのではないか」(同)といった、うがった見方も浮上している。それもダメなら、キリンHDはミャンマーから撤退するしかなくなる。キリンHDは買収に失敗したブラジル事業を売却、アジア・オセアニアに海外事業を集中するためにミャンマーのビール事業に参入した経緯がある。いずれにしても苦渋の選択となることは間違いない。
ミャンマーに日本企業433社が進出
日本貿易振興機構(ジェトロ)によるとミャンマー日本商工会議所に加入している日系企業の数は20年12月末時点で433社に上る。日系企業の進出は11年の民政移管後に活発になった。
国軍によるクーデターが発生して以降、日系企業は目まぐるしく変わる状況への対応に追われている。反発する国民は職場を放棄し、路上に出て抗議のデモを行ったため、多くの製造業が工場の稼働停止を余儀なくされた。スズキやデンソー、JFEエンジニアリング、ヤクルト本社、味の素などが操業を一時停止した。
トヨタ自動車は2月中にミャンマーで現地生産を始める計画で、すでに工場の建屋は完成していたが、新工場の稼働開始を延期した。開始時期は「検討中」。ミャンマーの自動車市場の拡大を見据え、約55億円を投じ、新工場を建設した。生産するのはピックアップトラックのハイラックスで、年間生産能力は2500台。130人を雇用する予定だった。
ヤンゴン近郊のティラワ地区には三菱商事、住友商事、丸紅などが工場団地を造営。KDDIと住友商事は国営企業と合弁で通信事業を展開している。イオンも現地企業とスーパー「イオンオレンジ」を運営。大和総研と日本取引所グループはヤンゴン証券取引所に出資している。
「アジア最後のフロンティア」と期待を膨らませて、多くの企業がミャンマーにやってきた。だが、ミャンマーで事業を継続すれば、欧米を中心とした国際社会から批判を受けかねない。欧米の経済制裁の進展の度合いによっては、輸出入だけでなく送金が制限されるというリスクもある。中国やインドと国境を接し、東南アジアでは比較的人口も多いミャンマーの中長期的な経済成長を想定して進出した日本企業は、政情不安というカントリーリスクを改めて思い知らされたことになる。
高圧的な国軍政権が民衆の支持を得るのは困難とみられており、若者らの間では真の民主化を求める動きも出ている。ミャンマーのチョー・モー・トゥン国連大使は国連総会で「クーデターを終わらせ、罪のない人々への弾圧を止め、民主主義を取り戻すために最も強い措置が必要だ」と述べ、各国に国軍政権を承認しないよう要請。ミャンマーでの抗議運動で市民らが抵抗の印とする3本指を掲げた。国軍は2月26日の演説直後にチョー・モー・トゥン国連大使の解任を発表したが、国軍には1カ月経っても止まらない市民らの抵抗に対する焦りがある。
(文=編集部)