ジャニーズ事務所は12月23日に、公式サイトで、新型コロナウイルス感染が判明した宮舘涼太以外のSnow Manのメンバー8人全員(岩本照、深澤辰哉、ラウール、渡辺翔太、向井康二、阿部亮平、目黒蓮、佐久間大介)が保健所から濃厚接触者と判断されたことを報告した。これを受け同日中に、SixTONESと共に初出場が決まっていた大晦日の『紅白歌合戦』出場を、Snow Manが取りやめることが発表された。
今回の紅白は、活動休止期間を目前とした嵐の出演が最大の目玉になると目されていた。NHK側としては当然、5人が司会&大トリを務めるというプランを想定しただろう。ところが、近年は『紅白』の顔だった嵐は、同日同時間帯に生配信ライブの開催を発表。『紅白』にも出場するものの、NHKホールからではなく、その配信ライブ中継での登場となると見られている。
コロナ禍により活動休止前のさまざまなプロジェクトが中止、見直しとなってしまった嵐は、縁のある『紅白』のステージを最後の花道とすることよりも、ファンとの距離が近い上に、事務所側に莫大な利益をもたらすとされる配信ライブを優先させたということだろう。
それでも中継では出演するわけで、ジャニーズ事務所も『紅白』に一応の仁義を通したともいえるが、NHK側としては、最大の目玉になかばフラれた形となったことは確かだろう。
2001年、2004年、そして“最後”の2016年、SMAPによる3度の『紅白』辞退
Snow Manの代役は誰になるのか? 嵐はどのような登場をするのか? 気になる点は多いが、ここでは、過去のジャニーズ事務所所属者の、『紅白歌合戦』出場にからむいろいろな出来事についてまとめたい。
SMAPは過去に事実上3度、『紅白』出演を辞退している。1度目は2001年のこと。この年に稲垣吾郎が不祥事を起こし、“稲垣メンバー”として報道される事態になったため、出場を辞退しているのだ。ただし、SMAPは翌2002年には復帰し、2003年には『世界に一つだけの花』を大ヒットさせ、大トリを務めるなど完全復帰した。
ところがSMAPは、その翌年にまた『紅白』を辞退する。これは、その年に新曲をリリースしなかったというのが公式理由で、「常にその年の新しいものを提供する場として紅白歌合戦に臨んできた僕たちとしては、そのため(新曲を出さなかったので)、今回の出演を辞退させていただきたい」といった発表をしている。
3度目は、あの解散騒動があった2016年のことだ。同年8月14日、12月31日でのSMAPの解散が発表された。そうなると、5人が最後に『紅白』でファンに別れを告げるという展開も想定された。だが、ご記憶の方も多いだろうが、SMAPはその後もグループとしての活動を行わず、ラストコンサートも、テレビ番組出演もなかった。NHK側も土壇場まで出演交渉を続けたとの報道もあったが、結局、12月19日に正式に『紅白』辞退を表明するコメントがメンバーの連名でリリースされるに至ったのである。
1988年、田原俊彦は出場決定発表後に、NHKへの“リベンジ”で出場を辞退
SMAPの場合はNHKによる出場歌手発表前の辞退だったが、なんと出場歌手が発表された後に、「出たくない」という理由で辞退した……という例がある。
当時、ジャニーズ事務所に所属していた田原俊彦は、歌手デビューした1980年に、同期の松田聖子と共に初出場を果たして以降、7年連続で『紅白』に出場していた。ところが、かつてのような勢いが失われ始めていた1987年に、落選してしまう。この年の『紅白』に出場したジャニーズ事務所所属者は、近藤真彦と少年隊のみだった。
ところが田原は、翌1988年に主演したテレビドラマ『教師びんびん物語』(フジテレビ系)が高視聴率を獲得し、自身が歌った主題歌『抱きしめてTONIGHT』を大ヒットさせる。見事に再ブレイクを果たしたわけだ。そして、同年末に発表された『紅白』出場メンバーのなかには、田原の名前が。これは誰もが納得の結果だった。
しかしその後、なんと田原は出場を辞退することを発表する。これは、田原による紅白への“リベンジ”であった。前年の落選扱いがよほど屈辱的だったのだろう。その翌年も、『ごめんよ 涙』というヒット曲を出した田原だが、『紅白』には戻らなかった。
さて、田原のドタキャンであいた穴を誰が埋めたのか? これもジャニーズ事務所所属者だった。4人組バンドの男闘呼組である。彼らはその年の夏に「DAYBREAK」という曲でレコードデビューを果たし、同曲は1988年度のオリコン年間チャート4位にランクインしている。ゆえにこの代替出場には、想像されるようなジャニーズ事務所の“ゴリ押し”感はあまりなく、結果、もともと初出場が決まっていた光GENJIと揃い踏みを果たす形になった。
1986年、落選が決定していたシブがき隊はハワイから帰国して土壇場で“復帰出演”
実はほかにも、『紅白』のピンチを救ったジャニーズ事務所所属のグループが2つある。
1971年、出場が決定していた内山田洋とクール・ファイブが、メインボーカルの前川清の体調不良を理由に出演を辞退するということがあった。そのピンチヒッターを務めたのは、当時ジャニーズ事務所の看板グループだったフォーリーブス。彼らは前年に初出場を果たしていたが、この年は落選していた。以後、フォーリーブスは計7回の『紅白』出場を果たすことになる。
1986年には、『紅白』史上最大の騒動が起こっている。
この年、出場が決まっていた北島三郎と山本譲二が反社会勢力の新年会に招かれていたことが発覚、本番の2日前に彼らの降板が発表されるのだ。そこで、角川博と鳥羽一郎という2名の演歌歌手が、代役として出場することが決まる。ところが、鳥羽も反社会勢力との付き合いがあることを理由に辞退してしまうのだ。
そこで、ジャニーズ事務所所属のシブがき隊に白羽の矢が立つ。彼らはデビューした1982年より4年連続で出場していたが、この年デビューした少年隊の人気爆発もあり、本来は落選していた。ハワイに滞在していたシブがき隊は急遽帰国して出演を果たしたのだった。その決定は、なんと12月30日のことであった。
番組にも事務所にも長い歴史が存在し、確固たるブランド力を保持している以上、さまざなま思惑、政治力がからむのはいたしかたないことだろう。いずれにしても『紅白歌合戦』は、ジャニーズ事務所なくしては成立しないのである。