(「パナソニックHP」より)
■松下幸之助(パナソニック創業者)
中日友好協会(廖承志会長)から招待を受けた松下幸之助・相談役(当時)は、1979年6月25日から7月4日まで訪中し、熱烈な歓迎を受けた。
松下は滞在中、鄧小平副首相、鄧頴超全国人民代表大会常務委員会副委員長(故周恩来首相夫人)ら中国要人と親しく会見した。
中国要人から掛け軸「天寿の歌」を贈られた相談役は、「天寿とは160歳のこと。あと80年間、私も生きるが、みなさんも生きてほしい」と述べ、大きな拍手を受けた。6月28日には、中国企業管理協会の要請で、「企業経営のあり方」について約2時間半にわたり講演した。
また、前年の78年10月に来日した際に面談した鄧小平副首相とは、2回にわたり人民大会堂で懇談し、旧交を温めた。相談役は「21世紀は日本や中国などの繁栄の時代。大きな視野で、中国の近代化に協力しなければならない」との確信をさらに強めた。帰国後、対中産業協力について、各界に積極的に働きかけた。
今回の中国の反日騒乱デモは、日系の工場や商店を放火や略奪の対象にし、日中関係の土台となってきた経済活動を直撃している。パナソニック(旧松下電器産業)など、中国経済の飛躍を助け、「井戸を掘った」功績を中国で認められてきた企業ですら被害を免れなかった現実が、中国ビジネスに深刻な影を落とすことは避けられない。パナソニックの工場では、そこで働く現地の従業員が設備を破損した例もあるという。
中国に進出した日系企業はこれまでも、現地の情勢混乱や反日デモの影響で、操業停止などを迫られてきた。とりわけ、中国の民主化要求運動が弾圧された89年6月の天安門事件や、03年春の新型肺炎(SARS)の流行では、操業停止や駐在員の国外退避が多数の日系企業に及んだ。
今回の反日デモは、山東省青島や江蘇省蘇州など、政治的な統制が及びにくい地方都市で暴動に発展した。被害を受けたパナソニックやトヨタは、日本の有名ブランドとして現地で親しまれていたことが逆に、暴動の標的となる皮肉な結果を招いた。
パナソニックと中国の関係は、松下電器産業時代の78年10月、大阪府茨木市の工場で、創業者の松下が、中国の近代化路線を進める鄧(当時副首相)を迎えたときから始まった。