「ハコモノではなくヒトの手を」地域デザイナーが闘う地方経済の真実
今回の番組:1月31日放送『カンブリア宮殿』(テレビ東京)
男は漁船に乗って現れ、漁港を歩く。小さめのスーツケースを転がし、キャメラが向けられると照れくさそうに笑った。彼はコミュニティデザイナー山崎亮。彼はもう「地方ではコミュニティが成立しなくなっている」と断言する。しかし、彼は実際に地方に活気を与え、町を活性化させている。
例えばある島ではおばちゃんたちを促し、名物となった名産品を産んだ。ある民家ではおばちゃんたちが売り物にならない穴の空いたのりを切り刻み、しょうゆに漬けてご飯に乗せる「のりっこ」を作っている。産業もなく、元気もない島に彼がアイデアを与えたのだ。飲み会では、おばちゃんがゲラゲラ笑いながら短く刈られた彼の坊主頭を撫でている。そして「この人に言われると出来そうな気がする」と言う。決して若くはないが元気な女性たちに囲まれて、山崎も嬉しそうだ。
しかし、彼はその場を去り、次の寂れた町へと向かう。この構図は西部劇みたいだな、と思う。僕はいつか見た、流れ者のガンマンが町を救い、砂埃が舞う中、馬に乗りどこかへ去るラストシーンを思い出す。
では町を支配する悪役は誰か。そこがはっきり見えないのが現代なのだろう。行政は金をかけて駐車場を作るが、駅前の商店街はシャッター通りのまま。文化施設を作っても、それが住民を満足させるものとはほど遠い。最も呆れているのはそこに住む市民たちだ。そのくせ「税金を払っているのだからなんとかしろ」と口にすることだけは達者なのだ。だが、そんな光景は珍しくもなんともない。数年前からずっとそんな安いドラマがいたる地方で演じられ、若者は去り、町は機能を失った。
実は山崎自身も行政の側だった。兵庫県の県庁職員を担当していた時代、町の人たちから散々「何でもやってくれるんだろう」と言われてきた。そして様々な設計を手がけた後、モノではなく「人を繋げる」ことに意識を変え、現在の職に就いた。「ハコモノをデザインしてきたが、これ以上増やすのはマズいかもしれない」と思ったそうだ。それまで自分が行ってきた仕事を見つめ直すのは相当な覚悟があったことだろう。モノありきではなく、まずはヒトなのだ。
そんな当然のことだが、実行するのは難しい。なぜなら行政ほど数字と結果を優先し、そこに住む人が抱える気持ちや心は後回しにせざるを得ないからだ。山崎は町を歩き、人と繋がる。隣の人には言えなくても、よそ者になら言えることがある。「この町には何があるの? と聞かれても、何もない町だと言ってしまう」。そんな本音をこぼせるのも、山崎が「他人」だからだ。
この「他人」は人との距離を必要以上に縮めない。なぜなら主役は彼ではなく、そこに住む住民だからだ。「聞き屋さん」なる集会所のアイデアを出しても、話を聞くのは山崎やスタッフではない。会話に飢えた一人暮らしの若者や老人の話をただ聞くのは町の人。こうやって人が繋がるきっかけを作るだけで十分なのだ。
山崎はそんな様子を遠くから眺め、写真に収める。
「当日あれこれ言うと、また山崎がやったのかと言われるから」と謙遜するが、彼はこんな光景から未来を想像しているのではないか。
しかし、彼は加速する少子高齢化を止めることが出来るのだろうか。独居老人世帯は20年後には今の1.5倍となり、単身世帯はおよそ4割になると言われている。「もう手遅れではないか」と僕は思う。もちろん山崎は日々、そんな町を目にしているのだから、そんなことは十分に分かっているはずだ。きっと行政が数字で表す「問題」は、そう簡単には変わらないだろう。しかし、少しだけ遅らせることは可能ではないか。この番組を見て、そう思えた。
なぜなら山崎が4年前に手がけたある高齢化が進む町では、彼の行動に感銘を受けたある民間の下水道会社の社長が、町のために行動を始める様子が描かれていたからだ。この会社では浄化槽の点検の後「10分間サービス」という仕事を始めていた。10分程度の仕事なら何でもします、ということだ。もちろん無料で。老婆は、重くて運べない本の束を二階へ運ぶのを若者に頼んでいた。
山崎がこのアイデアを出した当初、山崎に対して「よそ者が何を言ってるんだ。こういうタイプが嫌いなんだ」と否定的な態度だったそうだ。しかし、彼が住民と共に作った冊子をきっかけに自分に出来ることは何か、と考えたと言う。
一人では行うのは難しいが、その想いが通じれば連鎖は可能なのだ。小さくとも、結果は残った。
(文=松江哲明/映画監督)