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吉野家「ミスター牛丼」、なぜ鮮やかな退任?熾烈競争、重なる危機を乗り越えた不格好経営

文=福井晋/フリーライター
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吉野家「ミスター牛丼」、なぜ鮮やかな退任?熾烈競争、重なる危機を乗り越えた不格好経営の画像1吉野家の「牛丼」(「Wikipedia」より/Ocdp)
 吉野家ホールディングス(HD)は5月22日、今年9月1日付で事業子会社、吉野家取締役の河村泰貴氏が同社社長に昇格し、安部修仁社長は退任すると発表した。安部氏は吉野家HDの取締役も退任する。

 安部氏は吉野家のアルバイトからトップに上り詰めた叩き上げの経営者。1980年に倒産した吉野家の再建を主導し、91年に42歳の若さで同社社長に就任。以降、22年間にわたり吉野家の経営を指揮してきたが、後継者不足などを理由に経営トップ交代が進まない企業が多い中、今回の安部氏の退任に対しては「鮮やか」との評価が多い。そんな「鮮やかな」退任の背景を探ってゆくと、そこには「外食産業の非常識」を貫いた「ミスター牛丼」の姿があった。

 安部氏は、熾烈な「牛丼戦争」ではしばしば誤算を繰り返すなど、決して格好のいいカリスマ経営者ではなかった。外食業界関係者は安部氏について、「その不細工な人間臭さや率直さが、逆に社内の結束力を強めた。安部氏がカミソリ型カリスマだったら後継者も育たず、65歳の若さで退任なんてとてもできなかっただろう」と評価する。

 実際、牛丼戦争で吉野家の価格戦略は揺れ、業績浮沈を繰り返した。

 吉野家は2001年に並盛400円の牛丼を280円まで一気に値下げし、価格競争の劣勢を挽回した。だが、03年末に米国で発生したBSE(牛海綿状脳症)問題による米国産牛肉輸入停止で、04年2月から06年秋までの約2年半は牛丼販売を中止。その間に豪州産牛肉を使って牛丼販売を続けたゼンショーホールディングス傘下のすき家に、08年に店舗数で抜かれた。

 吉野家低迷の煽りで、最終損益が89億円の赤字に沈んだ10年2月期の連結決算発表の記者会見では、安部氏は「不甲斐ない決算だ」と語り、公の場で自分の失敗を率直に認めた。

 そして10年9月、吉野家の既存店売上高が19カ月ぶりに前年同月比増になった。起死回生策として同年9月7日に発売した並盛280円の低価格メニュー「牛鍋丼」がヒット、客足減にやっと歯止めがかかった格好だった。吉野家は牛鍋丼投入に際し、販売数に占める割合は「牛丼が6割、牛鍋丼が3割」と予測していた。だが、蓋を開けてみると「牛丼が3割、牛鍋丼が7割」と予測は外れ、9月の客単価は前月比15%も激減した。競合他社に比べメニュー数の少ない吉野家は、低価格メニューへ客がシフトすると、客単価が一気に落ち込む構造になっていたからだ。

●目まぐるしく変化する牛丼戦争

 12年になると、低価格一辺倒を競う牛丼戦争に変化が生まれた。松屋フーズ傘下の松屋が、12年1月に牛丼の「牛めし」価格を、業界最安値のすき家の牛丼と同額に値下げしたのに対し、すき家も吉野家も対抗値下げをしなかった。値下げが集客増につながらなくなっていたからだ。
 
 安部氏は、12年2月期連結決算発表の記者会見で、「3年前は価格競争の影響を受けた。牛鍋丼を投入したのもその対抗策だった。だが前期は牛丼の品質向上に重点を置いた。品質向上は直ちに売上増につながるものではないが、吉野家の存在感を高めるために極めて重要だ」と述べ、牛丼戦争の変化を背景に、価格競争からの脱却を暗に宣言した。

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