産経新聞ソウル支局長が、2度にわたって韓国の検察当局の事情聴取を受けた。記事が、「朴槿恵(パク・クネ)大統領に対する名誉毀損に当たる」などとして告発を受けていたためだが、韓国大統領府も、産経新聞に対して、民事、刑事上の責任を問う考えを表明している。
●たとえ“毒”のある論評であっても
問題となったのは、加藤達也支局長が8月3日に産経新聞のサイトにアップしたコラム。「朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」と思わせぶりなタイトルがつけられている。事故の日、朴大統領の所在が不明になり、関係のある男性と密会していたというウワサが、韓国社会の中で流れており、それは政権のレームダック(死に体)化が進んでいる証しだ、といった内容。言いたいことは分かるが、「証券筋が言うところでは」と、真偽不明の、というより、かなり怪しげな噂をことさらに紹介している点などは、朴大統領に対する“悪意”がぷんぷんする、というのが私の読後感である。
ただ、産経流の“毒”がまぶされているとはいえ、コラムの大半を占めている情報は、韓国の新聞・朝鮮日報に掲載されたコラムに書かれたもの。にもかかわらず、大統領府がこれだけ目の敵にするのは、やはり産経新聞だから、だろう。
韓国の東亜日報は社説で、「産経新聞は、保守嫌韓新聞として悪名高い」「産経新聞のような低劣な新聞を日本の他のメディアと同等に扱うことはできない。政府も取材制限など適切な措置を講じなければならない」などと断じている。韓国国民にすれば、大統領は自分たちの国を代表する存在だ。大統領に対して批判的である人たちでも、外国の「嫌韓新聞」に揶揄されることだけは許せない、と憤慨する気持ちは分からないではない。
しかし、である。大統領府だけでなく、韓国メディアも感情的になりすぎて、民主主義の根幹とも言える言論の自由を置き去りにしてはいないか。
「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
これは、18世紀の啓蒙思想家ヴォルテールが言ったとされる(ただし、その証拠はないらしい)有名な言葉だが、言論の自由の真髄はこれだろう。民主主義社会では、様々な立場による分析や主張が、自由に流通することが望ましい。自分とは異なる、あるいは自分が不快に思う言論だからといって、排除していたのでは、言論の自由は守れない。むしろ、立場の違う者の言論の自由こそ、しっかりと守らなければならない。
もちろん、人の名誉やプライヴァシ―を傷つける言論は制約を受ける。だが、その程度は、対象が一般人の場合と公人の時では異なる。大統領は、公人中の公人。底意地の悪い批判や悪意の籠もった論評をされることも、やはり甘受すべきだろう。確かに、“毒”はまぶされているとはいえ、この程度のコラムでいちいち刑事事件にされたり、外相会談に持ち出されて外交問題化するのでは、民主主義国家である韓国の「言論の自由」のありように疑問を投げかけざるをえない。