(『中坊公平の闘い 決定版<上>』藤井良広著/日本経済新聞社)
中坊公平氏は伝説に彩られた弁護士だった。1929年、京都に生まれた。実家は老舗旅館「聖護院御殿荘(しょうごいん・ごてんそう)」。京都大学法学部を卒業し、57年、大阪弁護士会に登録。乳児130人が亡くなり、約1万3000人に健康被害が出た森永ヒ素ミルク中毒事件(75年)の民事訴訟で被害者弁護団長を務めた。
中坊氏は、最初は弁護団長になることをためらっていたが、父親から「赤ちゃんに一体何の罪があるんだ! そんな情けない息子に育てた覚えはない」と一喝されて目覚めたという。このエピソードはよく知られている。
「戦後最大の詐欺商法」と呼ばれ、高齢者らから約2000億円を集めて倒産した豊田商事事件(85年)では同社の破産管財人となり、前代未聞の回収作戦を敢行した。店舗の家賃や敷金、さらに高額の給料(支店長クラスで基本給90~140万円+役職手当90万円。これに支店の売り上げの0.5%が加算される)を貰っていた豊田商事の従業員が納めた税金まで回収し、その総額は100億円を超えた。回収に対する妨害行為も激しく、暴力団が中坊チームの回収した資金の奪取を試みたり、建物の占有を実行したこともあった。
NHKの人気番組『プロジェクトX——挑戦者たち』で「悪から金を取り戻せーー豊田商事事件・中坊公平チームの闘い」として、当時の活躍ぶりが取り上げられ、彼の名前は全国区になった。90~92年に日本弁護士連合会会長を務めた。
「平成の鬼平」と異名をとるのは96年10月、住宅金融債権管理機構(現・整理回収機構)の社長に就いてからだ。住宅金融専門会社、いわゆる住専7社の不良債権を回収する、ハードな仕事である。
住専の不良債権問題について触れておこう。
住専は1970年代に、大蔵省(現・財務省)が音頭を取り、個人向けの住宅ローンを専門に扱うノンバンクとしてスタートした国策会社である。住宅ローンは住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)と住専の専売特許となった。
しかし、住専の母体行である都市銀行が住宅ローン市場に相次いで参入。住専は弾き飛ばされてしまった。金利の安さを売り物にする大手銀行の住宅ローンに対して、銀行から調達した資金を貸し付ける(つまり、銀行の金利プラス住専の利ザヤが必要になる)住専が金利面で太刀打ちできるわけがなかった。
個人向け住宅ローン市場を母体行の銀行に奪われた住専は事業金融に転進していく。母体行の誘導によって転進したのだ。この方針転換が住専の惨状を招く原因となる。
「住宅を供給する不動産会社に資金を貸し付ける仕事は、住宅ローン会社の責務だ」という建前で新規事業に乗り出したが、住専の貸出先は住宅会社にとどまらなかった。貸しビルやゴルフ場、リゾート開発、さらには地上げや土地転がしの資金まで、土地と名がつけば、どんな会社にでも、誰にでも貸した。それまで地上げ屋と呼んでバカにしていた手合いを、都市開発業者と呼び換えるように住専の担当者に指示したのは、母体行の幹部行員だった。大手行のダミーとなって、危ない融資先に貸し込んでいったのである。
住専を経由してダーティーマネーを貸し付け、荒稼ぎした銀行が住専から逃げ去るのは早かった。日本銀行はバブルを潰すために、不動産事業者向けの銀行の貸出枠を絞った。日銀に貸出枠を削られた銀行は、それまで住専に貸し付けていた資金を一斉に引き上げた。ここに姿をあらわしたのが、農協マネーを運用している農林系金融機関。銀行が引き上げた分を肩代りするかたちで、農林系が住専に入り込んだ。