住友財閥も大倉財閥も再集結ならず…戦後も金持ちだった財閥当主が復権できなかったワケ
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財閥解体で株式を放出
三井グループ・三菱グループ・住友グループの母体が、それぞれ三井財閥・三菱財閥・住友財閥であることはよく知られている。簡単にいえば、第二次世界大戦後、財閥解体によって解体された財閥が、戦後、企業集団として再編されたのだ。
両者の違いはいろいろあるのだが、一番の違いは株式所有構造だ。
戦前の財閥は、財閥家族(三井家・岩崎家・住友家)が唯一の大株主として財閥本社の株を押さえ、財閥本社が傘下企業の圧倒的な株式を所有していた。ところが、財閥解体によって財閥本社は解散・清算させられ、財閥家族が所有していた株式は強制的に放出させられた。
そこで、傘下企業(三菱ならば、三菱銀行・三菱商事・三菱重工業など)は、互いに株式を持ち合って経営権を確保し、企業経営を盤石なものにしていった――というのが、経営史の見立てである。
歴史の大きな流れとしては、なるほどそうなのかもしれないが、歴史の当事者――つまり、財閥解体に直面した当時の経営者は、2つの相反する感想を持ったと思われる。
1つは「この災厄をくぐり抜けて、いかにして現在の体制(財閥)を維持していくか」であり、もう1つは「財閥の枠組みから解き放たれた! 今後はどのような体制でビジネスを展開していくか」というものである。
前者の想いが勝ったから三菱財閥は三菱グループとして再編されたのであって、その想いがなければ、グループ再編は起きなかった。ではなぜ、戦前と同様に財閥の形式に戻さなかったのか。実は、戻せなかったという表現が正しい。
住友吉左衛門、住友株を買い戻す
財閥解体で、財閥家族が所有していた株式は強制的に放出させられた。
しばしば誤解されるのだが、財閥家族は株式を取り上げられたのではない。強制的に売却させられたのだ。だから、戦後も(しばらくの間は)財閥当主は大金持ちだった。
1950年に、富裕税といって所有資産に応じて課税される税金が創設され、これが大金持ちの大反対で3年後に廃止に追い込まれたのだが、納税額の3位が住友吉左衛門、9位が岩崎小弥太の未亡人、11位が三井八郎右衛門だった。
戦後の住友吉左衛門の肩書きは「無職」もしくは「不動産業(=土地持ち)」だった。そして、吉左衛門はありあまる資産を株式投資に充てていた。もちろん、買い銘柄は「住友××」である。上位40位まで大株主を掲載している『会社系列を探る』という古書がある。もっとも古い年次と思われる1957年版(1956年当時)によると、住友吉左衛門は下記の住友グループ企業の大株主になっている。
・日本板硝子 14万株(0.58%)20位株主
・住友電気工業 7万8株(0.20%)27位株主
・住友ベークライト 4万株(0.45%)11位株主
・日本電気 4万株(0.20%)33位株主
当然のことながら、住友電気工業や住友ベークライトの株式を持っていて、住友銀行(現・三井住友銀行)や住友化学工業の株式を持っていないはずがない。たまたま上位40位以内に入らなかったから掲載されていないだけで、これら企業の株式も当然所有していたであろう。
住友吉左衛門は、個人としては住友グループ企業の大株主だったということだ。ただし、住友吉左衛門自身がすすんで住友グループ企業を買い漁っていたとは思えない。
実は、戦前の財閥本社重役が、住友家の個人財産の管理と相談を目的とした特殊機関として「五人委員会」というものを設立していた(今に続く「住友家評議委員会」の前身組織である)。戦後、住友では財閥本社重役が完全に企業経営から疎外されていた。「五人委員会」はかれらの復権を企図したための組織と見ることができる。
住友吉左衛門自身は企業経営にノータッチだったのだが、「五人委員会」の本社重役OBは、資産管理の名を借りて住友家を再び大株主の座に押し上げ、その名のもとに住友グループ企業を支配しようと目論んでいたのだろう。
大倉喜七郎、大倉株を買い戻す
住友吉左衛門は自らの復権を望んでいなかったと書いた。しかし財閥家族のなかには、財閥の復活・再結集を目論む御仁もおられた。
大倉財閥の2代目・大倉喜七郎は、戦前の財閥重役の間で人望が薄かった。曰く、どうも趣味道楽が激しくて、企業経営に向いていないと。しかし、戦後、ホテルオークラを創設した企業家として評価が高い。どうもこの御仁は、クリエイティブな事業向きで、すでに出来上がった財閥の維持・整理なんかには興味がなかったらしい。しかも、興味のないことにはとことん手が進まない。いわゆる「今ある場所で咲きなさい」ということができない性分だったのだ。
大倉喜七郎は、財閥の2代目としては失格だったが、財閥解体後の再結集にはその才能が遺憾なく発揮された。前述の『会社系列を探る』1957年版によると、自身および喜七郎の資産管理会社である中央建物の所有株式は以下の通りで、これ以外にも、非上場会社の川奈ホテルでは筆頭株主(46.04%)、大成建設では7位株主(1.67%)となっている。
・日本無線 53万4700株(6.68%)筆頭株主。喜七郎が会長。
・東海パルプ 104万5100株(11.61%)中央建物が筆頭株主
・大倉商事 9000株(0.42%)中央建物が32位株主。喜七郎の長男が監査役。
図示すればわかるように、大倉喜七郎の大倉財閥復活計画は着々と進んでいたのだ。
大倉喜七郎は、財閥解体に遭いながらも、おのれの自由に出来る資金が相当あったようである。個人的な資産もかなりあったようだが、かれの個人秘書によれば、喜七郎の株式投資の腕前を信じて、銀行も右から左に金を貸してくれたという。
なぜ財閥は復活しなかったのか?
しかし、住友吉左衛門が戦後も住友グループ企業の大株主であったことを知る人は少なく、大倉財閥が再び大倉喜七郎の下で再結集することはなかった。
それは、高度経済成長で企業が急成長し、個人では大株主の座を維持できないほどに資本金が倍増してしまったからだ。たとえば、松下電器産業(現・パナソニック)は、1950年から1960年の10年間で資本金が93万6000株から20億株に急増した。実に216倍である。
増資、増資の繰り返しで、いくら大倉喜七郎が資産家であっても、さすがに大株主の地位を維持できない。戦後日本で一・二を争う大金持ちだった松下幸之助(松下電器産業の創業者)が、配当金のすべてを増資株引き受けに使っても、大株主の座を守るのに汲々としていたくらいだから。
換言するなら、高度経済成長がなかったら、企業の資本金倍増がそれほど進まなかったら、大倉喜七郎や住友吉左衛門は大株主として再び財閥当主として君臨していたかもしれない。
ただし、財閥当主の株式買い増しはまったく無駄なわけではなかった。終戦直後のハイパーインフレはすさまじく、たとえば、1946年に540円だった公務員の初任給は、20年後の1966年に2万3300円になっていた。実に43倍! インフレ下では、資産は貨幣以外の形で持っていたほうが得策である。たとえば、株式。かくして、大株主・住友吉左衛門は、戦後も隠れた大金持ちとして余生を過ごしたのである。(【後編】に続く)
(文=菊地浩之)